交響曲、大好き!

交響曲といっても知られていないものも多いと思います。 皆さんが聞きなれた/聞いたことがない交響曲を紹介していければと思います。

シューベルト 交響曲第1番

フランツ・ペーター・シューベルト(1797年 - 1828年)が本名なんですが、31歳で亡くなっているんですね。

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誕生
シューベルトはウィーン郊外のリヒテンタールで生まれました。メーレン(モラヴィア)から移住したドイツ系植民の農夫の息子である父のフランツ・テオドール(1763 - 1830)は教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツ(1756 - 1812)は結婚前ウィーン人家族のコックをしていました。成人したのは長男イグナーツ(1785 - 1844)、次男フェルディナント(1794 - 1859)、三男カール(1795 - 1855)、次いで第12子のフランツ、娘のテレジア(1801 - 1878)でした。父はアマチュア楽家で長男と次男に音楽を教えました。

フランツは5歳のとき、父から普通教育を受け始め、6歳のときにリヒテンタールの学校に入学しました。このころ、父は末の息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めました。フランツは7歳ごろになると父親の手に余るほどの才能を発揮し始めたため、父はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにしました。ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したといいます。聖歌隊の仲間たちは、フランツの音楽的才能に一目を置いていました。当時は演奏家として聴衆に注目されなければ音楽家としての成功の機会はないという時代だったため、しばしば聖歌隊の建物に隣接するピアノ倉庫にフランツを案内して、ピアノの練習を自由にできるように便宜を図ってくれました。そのおかげで、貧しい彼には触れられなかったような良質な楽器で練習、勉強をすることができました。

コンヴィクト
1808年10月、シューベルトはコンヴィクト(ドイツ語版)(寄宿制神学校)の奨学金を得ました。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていました。ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属、ハイドンが聖ステファン大聖堂で得た教育とほとんど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かったようです。シューベルトを支えた友人たちの多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun、1788 - 1865)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多くの友人たちが貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙など、誠実な支持と励ましを与えました。また、このコンヴィクトでモーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会うことができました。一方、才能は作曲の分野ですでに示しつつありました。1810年4月8日 - 5月1日の日付がある32ページにわたりびっしりと書かれた『4手ピアノのためのファンタジア(D1)』、続いて1811年にはツムシュテーク(1760 - 1802)が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、『五重奏序曲(D8)』『弦楽四重奏曲(D18)』『4手ピアノのためのファンタジア第2番(D9)』があります。室内楽曲が目立っていますが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でカルテット演奏会が行われていたためです。これは後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものでした。シューベルトはコンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残しました。また野心的に力を注いだのは、1812年の母の葬儀用と言われる『キリエ(D31)』と『サルヴェ・レジーナ(D106)』(それぞれ合唱聖歌)、『木管楽器のための八重奏曲(D72)』です。1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなる『カンタータD80)』を残しました。学校生活の最後には最初の交響曲(D82)が生まれました。

1813年 - 1815年

1813年の終わりにシューベルトは、変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったためコンヴィクトを去り、兵役を避けるために父の学校に教師として就職しました。このころ、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚しました。彼は2年以上この仕事に就いたが、あまり関心を持てなかったようで、その代償を別の興味で補いました。サリエリから個人的な指導を受けたが、彼はハイドンモーツァルトの真似だと非難してシューベルトを悩ませました。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えました。またシューベルトはグロープ一家と親密に交際しており、その家の娘テレーゼは歌がうまくよい友人でした。彼は時間があれば素早く大量に作曲をしました。完成された最初のオペラ『悪魔の悦楽城(D84)』と、最初の『ミサ曲ヘ長調(D105)』はともに1814年に書かれ、同じ年に『弦楽四重奏曲』3曲(D46、D74、D87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲ニ長調(D82)』の第1楽章、『潜水者(D77)』や『糸を紡ぐグレートヒェン(D118)』といった傑作を含む7つの歌曲が書かれました。

1815年には、学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出しました。『交響曲第2番変ロ長調(D125)』が完成し、『交響曲第3番ニ長調D200)』もそれに続きました。また、『ト長調(D167)』と『変ロ長調(D324)』の2つのミサ曲(前者は6日間で書き上げられた)、その他『ヘ長調のミサ曲』のための新しい『ドナ・ノビス(D185)』『悲しみの聖母(D383)』『サルヴ・レジナ(D379)』、オペラは『4年間の歩哨兵勤務(Der Vierjahrige Posten、D190)』『フェルナンド(D220)』『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ(D239)』、『アドラスト(D137)』(研究により1819年の作曲と推定)『バイデ・フロインデ・フォン・サラマンカサラマンカの友人たち)(D326)』(会話の部分が失われている)の5曲が作曲されました。他に『弦楽四重奏ト短調(D173)』『ピアノのための4つのソナタ(D157、D279、D459)』、数曲のピアノ小品があります。これらの最盛期をなすのは146の歌曲で、中にはかなり長い曲もあり、また8曲は10月15日、7曲は10月19日の日付があります。

1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファー(1787 - 1836)と知り合いました。この出会いは間もなく温かで親密な友人関係に熟していきました。2人の性質はかなり違っていました。シューベルトは明るく開放的で少々鬱のときもあったが、突然の燃えるような精神的高揚もありました。一方マイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男性だった。2人の関係は、シューベルトに対して一方的に奉仕するものだったという。

1816年
シューベルトの運命に最初の変化が見えました。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聴いていた、法律学生フランツ・ショーバー(1796 - 1882)がシューベルトを訪問して、教師を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案しました。シューベルトはライバッハ(現在のリュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛りつけられているという思いが強まっていたところでした。父親の了解はすぐに得られ、春が去るころにはシューベルトはショーバーの客人になりました。しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしましたが、じきにやめて作曲に専念しました。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成させるとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていたそうです。

1816年の作品の1つはサリエリの6月16日記念祭のための『3つの儀式用カンタータ(D407)』、もう1つの『プロメテウス・カンタータ(D451)』はハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒たちのためで、教授はシューベルトに報酬を支払いました。彼は雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っています。もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『カンタータ(D472)』です。もっとも重要な作品は『交響曲第4番ハ短調 (D417)』で《悲劇的交響曲》と呼ばれ、感動的なアンダンテがあります。次いでモーツァルト交響曲のように明るく新鮮な『第5番変ロ長調(D485)』、その他多少の教会音楽でした。これらはゲーテやシラーからシューベルト自身が選んだ詩でした。

この時期、友人の輪が次第に広がっていきました。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手フォーグル(1768 - 1840)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌いました。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに奉仕し崇めていました。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトソナタやファンタジーを演奏しました。ゾンライトナー家は裕福な商人で、長男がコンヴィクトに所属していた縁もあって自宅を自由に使わせていましたが、それは間もなく「シューベルティアーデ」と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていきました。

その当時、シューベルトは貧しかったようです。それと言うのも教師を辞めたうえ、公演で稼ぐこともできなかったからです。しかも、音楽作品をただでももらうという出版社はなかったのです。しかし、友人たちは真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきました。彼らは自分たちの食事を分け合って食べ、裕福な者は楽譜の代金を支払いました。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい人が紹介されたときの、「彼ができることは何か?」という質問がこの会の特徴をよく表しています。

1818年
1818年は前年と同様、創作上は比較的実りがなかったものの、2つの点で特筆すべき年でした。1つ目は作品の公演が初めて行われたことです。演目はイタリア風に書かれた『序曲(D590)』で、これはロッシーニをパロディー化したと書かれており、5月1日に刑務所コンサートで演奏されました。2つ目は初めて公式の招聘があったことです。これは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごしました。

この年の作品には『ミサ曲(D452)』『交響曲第6番(D589)』(ともにハ長調)、ツェレスでの生徒たちのための一連の『四手のためのピアノ曲』、『孤独に(D620)』『聖母マリア像(D623)』『繰り言(Litaney)』などを含む歌曲があります。秋のウィーンへの帰りに、ショーバーのところには滞在する部屋がないことが分かり、マイアーホーファー宅に同居することになりました。ここでシューベルトの慣れた生活が継続されました。毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食のあと田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、あるいはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問しました。歌曲の作曲家としての最初の公演は1819年2月28日で、『羊飼いの嘆きの歌(D121)』が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われました。この夏、シューベルトは休暇を取り、フォーグルとともに北部オーストリアを旅行しました。シュタイアーで「鱒(ます)」として有名な『ピアノ五重奏曲イ長調(D667)』のパート譜をスコアなしで書き、友人を驚かせました。秋に自作の3曲をゲーテに送ったが、返事はなかったそうです。

1820年・1821年
1820年の作品には進歩と形式の成熟が見られます。小作品の数々に混じって『詩篇23番(D706)』『聖霊の歌(D705)』『弦楽四重奏断章ハ短調(D703)』、ピアノ曲さすらい人幻想曲(D760)』などが誕生しています。

6月14日に『双子の兄弟(D647)』が、8月19日に『魔法の竪琴(D644)』が公演されました。これまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていました。それは家庭でのカルテット演奏会から育って大きくなった社交場でした。ここにきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接することが求められ始めました。相変わらず出版社は冷淡でしたが、友人のフォーグルが1821年2月8日にケルントナートーア劇場で『魔王』を歌い、ようやくアントニオ・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781 - 1858)がシューベルトの作品の取次販売に同意しました。作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版されました。その後、この契約が終了し、大手出版社が彼に応じてわずかな版権を受け取り始めました。シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについては、多くの記事を見ることができます。2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより舞台に向けられました。

1821年の年の瀬にかけて、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていました。『アルフォンソとエストレラ(D732)』は受け入れられず、『フィエラブラス(D796)』も同じだった。『陰謀者(D787)』は検閲で禁止されました(明らかに題名が根拠だった)。劇付随音楽『ロザムンデ(D797)』は2夜で上演が打ち切られました。これらのうち『アルフォンソとエストレラ』と『フィエラブラス』は、規模の点で公演が困難でした(たとえば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜)。しかし『陰謀者』は明るく魅力的な喜劇であり、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていました。

1822年 - 1825年
1822年にカール・マリア・フォン・ウェーバー、そしてベートーヴェンと知り合います。両者ともに親しい関係にはならなかったが、ベートーヴェンシューベルトの才能を認めていました。シューベルトベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための『フランスの歌による変奏曲(D624)』作品10を同年に出版するにあたり献呈しています。しかしウェーバーはウィーンを離れ、新しい友人も現れませんでした。この2年は全体として、彼の人生でもっとも暗い年月でした。

1824年春、シューベルトは壮麗な『八重奏曲(D803)』『大交響曲のためのスケッチ』を書き、再びツェレスに戻りました。またハンガリーの表現形式に魅せられ『ハンガリー風喜遊曲(D818)』と『弦楽四重奏曲イ短調(D804)』を作曲しました。

舞台作品や公的な義務で忙しかったですが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出されました。『ミサ曲変イ長調(D678)』が完成。1822年に着手した絶妙な『未完成交響曲(D759)』も生まれています。ミュラー(1794 - 1827)の詩による『美しき水車小屋の娘(D795)』と素晴らしい歌曲の数々が1825年に書かれました。

1824年までに、前記の作品を除き『《しぼめる花》の主題による変奏曲(D802)』、2つの弦楽四重奏曲イ短調 <ロザムンデ>(D804)』『ニ短調<死と乙女>(D810)』が作られています。また『ピアノとアルペジョーネのためのソナタ(D821)』は、当時、ウィーンのギター製作家シュタウファーにより開発されたばかりの新しい楽器を用いた試みでした。

過去数年の苦難は1825年の幸福に取って代わりました。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスからしばらくは解放されました。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をしました。旅行中に、ウォルター・スコット(1771 - 1832)原詩の歌曲『ノルマンの歌(D846)』『囚われし狩人の歌(D843)』や『ピアノソナタ イ短調(Op.42, D845)』を作曲、スコットの歌ではこれまでの作曲で最高額の収入を得ました。

ウィーンでの晩年

1827年グラーツへ短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてはウィーンに留まりました。その間、たびたび体調不良に襲われています。

晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられます。一つ目は1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。二つ目はオペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけ、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したが拒否され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。そして三つ目は1828年の春、人生で初めてで生前唯一の、彼自身の作品の演奏会です。

1827年に、シューベルトは『冬の旅(D911)』『ピアノとヴァイオリンのための幻想曲(D934)』と2つのピアノ三重奏曲(Op.99/D898、Op.100/D929)を書きました。

1827年3月26日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトは葬儀に参列しました(ウィーン市民2万人の大葬列の中の一人)。その後、友人たちと酒場に行き、「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。このとき友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたそうです。そして、彼の寿命はその翌年で尽きました。

最晩年の1828年、『ミサ曲変ホ長調(D950)』、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ(D962)』、『弦楽五重奏曲(D956)』、『ミサ曲ハ長調(D452)』のための2度目の『ベネディクトス(D961)』、最後の『3つのピアノ・ソナタ(D958、D959、D960)』、『白鳥の歌』として有名な歌曲集(D957/D965A)を完成させました。この中の6曲はハイネの詩につけられました。ハイネの名声を不動のものにした詩集『歌の本』は1827年秋に出版されています。シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(のちにブルックナーの教師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩きました。しかし何度かのレッスンのあと、ゼヒターはその知人からシューベルトは重病と知らされました。11月12日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えました。これがシューベルトの最後の手紙となりました。

その後、シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていましたが、11月14日になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去しました。31歳没。フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったそうです。

遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあったヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬されました。1888年に両者の遺骸はウィーン中央墓地に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も二人の当時の墓石が残っています。

死後間もなく小品が出版されましたが、当時の出版社はシューベルトを「シューベルティアーデ(ドイツ語版)のための作曲家」とみなして、大規模作品を出版することはなかったそうです。

シューベルトの死因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、エステルハージ家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が彼の体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも言われています。シューベルト生誕200年の1997年には、改めて彼の人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も制作され公開されました。

死後
19世紀
没後は歌曲の王という位置づけがなされ、歌曲以外の作品は『未完成交響曲』や弦楽四重奏曲『死と乙女』のような重要作を除いて放置に等しい状況でした。

1838年シューマンがウィーンに立ち寄った際に、シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問しました。フェルディナントはシューベルトの書斎を亡くなった当時のままの状態で保存しており、シューマンはその机上で『(大)ハ長調交響曲』がほこりに埋もれているのを発見し、ライプツィヒに持ち帰りました。その後メンデルスゾーンの指揮によって演奏され、ノイエ・ツァイトシュリフト紙で絶賛されました。ちなみにこの交響曲の番号は、母国語がドイツ語の学者は第7番、再版のドイツのカタログでは第8番、英語を母国語とする学者は第9番として掲載するなど、いまだに統一されていません。

この他の埋もれていた作品の復活に、1867年にウィーンを旅行したジョージ・グローヴ(1820 - 1900)とアーサー・サリヴァン(1842 - 1900)の2人が大きな功績を挙げました。この2人は7曲の交響曲、ロザムンデの音楽、数曲のミサ曲とオペラ、室内楽曲数曲、膨大な量の多様な曲と歌曲を発見し、世に送り出しました。こうして聴衆は埋もれていた音楽に興味を抱くようになり、最終的には楽譜出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルによる決定版として世に送り出されました。

グローヴとサリヴァンに由来し、長年にわたって《失われた》交響曲にまつわる論争が続いてきた。シューベルトの死の直前、彼の友人エドゥアト・フォン・バウエルンフェルトが別の交響曲の存在を1828年の日付で記録しており(必ずしも作曲年代を示すものではないが)、《最後の》交響曲と名付けられていた。《最後の》交響曲が「ニ長調(D963A)」のスケッチを指していることは、音楽学者によってある程度受け入れられています。これは1970年代に発見され、ブライアン・ニューボールド(英語版)によって交響曲第10番として理解されています。シューベルトはリストの言葉でよく要約されています。曰く、「シューベルトはもっとも詩情豊かな音楽家である」と。

シューベルトの多くの作品に即興性が見られますが、これは彼が筆にインクのしみをつけたことがないほどの速筆だったことも関係しています。

20世紀

シューベルトは歌曲以外にも、未公開作品や未出版作品を大量に遺したため、研究は難航しました。

ピアノソナタなど、その他の作品が脚光を浴びるようになるのはシューベルト没後百年国際作曲コンクール(優勝者はクット・アッテルベリ)が1927年に開催されるころからで、同時期にエルンスト・クルシェネクがシューベルトピアノソナタの補筆完成版を出版しました。

シューベルトピアノソナタベートーヴェンより格下に見られていたために録音しようというピアニストは少数でしたが、その黎明期に録音を果たした人物にヴァルター・ギーゼキングがいます。没後150年を迎えた1977年ごろになると、シューベルトピアノソナタは演奏会でかかるようになり、長大なピアノソナタを繰り返しなしで演奏することが可能になりました(かつては省略が当たり前だった)。現在は初期から後期までの作品が演奏会に現れます。補筆して演奏するパウル・バドゥラ=スコダ(ピアノソナタ第11番)のようなピアニストも珍しくない。

シューベルト新全集は現在ベーレンライター出版社が全責任を取る形で出版に務めていますが、オペラなどの部分はこれからも順次刊行予定です。音符の形やスコア全体のレイアウトはすべてコンピュータ出力で修正されていますが、合唱作品はCarus社なども新しい版を出版しています。

現在の浄書技術をもってしてもデクレッシェンドなのかアクセントなのかの謎は、完全には解明されていません。そのため、『未完成交響曲』の管楽器についた音は、いまだに奏者や指揮者によって解釈が異なり定着していません。

 

歴史的位置

ロマン派の幕開け
シューベルトは一般的にロマン派の枠に入れられますが、その音楽、人生はウィーン古典派の強い影響下にあり、記譜法、基本的な作曲法も古典派に属しています。貴族社会の作曲家から市民社会の作曲家へという点ではロマン派的であり、音楽史的には古典派とロマン派の橋渡し的位置にありますが、年代的にはシューベルトの一生はベートーヴェンの後半生とほぼ重なっており、音楽的にも後期のベートーヴェンより時に古典的です。

同様に時期的にも様式的にも古典派にかかる部分が大きいにもかかわらず、初期ロマン派として挙げられることの多い作曲家としてカール・マリア・フォン・ウェーバーがいますが、シューベルトにも自国語詞へのこだわりがありました。ドイツ語オペラの確立者としての功績を評価されるウェーバーと比べると大きな成果は挙げられなかったものの、オペラ分野ではイタリア・オペラの大家サリエリの門下でありながら、未完も含めてドイツ語ジングシュピールに取り組みつづけました。当時のウィーンではドイツ語オペラの需要は低く、ただでさえ知名度の低いシューベルトは上演機会すら得られないことが多かったにもかかわらず、この姿勢は変わりませんでした。教会音楽は特性上ラテン語詞の曲が多いものの、それでも数曲のドイツ語曲を残し、歌曲に至っては9曲のイタリア語曲に対しドイツ語曲576という比率となっています。

「ドイツの国民的、民族的な詩」に対し「もっともふさわしい曲をつけて、本当にロマン的な歌曲を歌いだしたのはシューベルトである」とし、ウェーバーらとともに、言語を介した民族主義をロマン派幕開けの一要素とする見解もあります。

他の作曲家との関係
シューベルトは幼いころからフランツ・ヨーゼフ・ハイドンやミヒャエル・ハイドンモーツァルトベートーヴェン弦楽四重奏を家族で演奏し、コンヴィクトでもそれらの作曲家の交響曲をオーケストラで演奏、指揮していました。

シューベルトは当時ウィーンでもっとも偉大な音楽家だったベートーヴェンを尊敬していましたが、それは畏怖の念に近いもので、ベートーヴェンの音楽自体は日記の中で「今日多くの作曲家に共通して見られる奇矯さの原因」としてむしろ敬遠していました。シューベルトは主題労作といった構築的な作曲法が苦手だったと考えられていますが、そういったベートーヴェンのスタイルは本来シューベルトの作風ではなかったようです。

むしろシューベルトが愛した作曲家はモーツァルトでしょう。1816年6月14日、モーツァルトの音楽を聴いた日の日記でシューベルトモーツァルトをこれ以上ないほど賞賛しています。またザルツブルクへの旅行時、聖ペーター教会のミヒャエル・ハイドンの記念碑を訪れ、感動とともに涙を流したという日記も残されています。

コンヴィクトからの友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンが書き残した回想文は、シューベルトが11歳のとき、「ベートーヴェンのあとで、何ができるだろう」と言ったと伝えています。さらにオーケストラでハイドンモーツァルトベートーヴェン交響曲を演奏したときにはハイドン交響曲アダージョ楽章に深く心が動かされ、モーツァルトの(おそらくk550)ト短調交響曲については、なぜか全身が震えると言い、さらにメヌエットのトリオでは天使が歌っているようだと言いました。ベートーヴェンについてはニ長調(第2番)、変ロ長調(第4番)、イ長調(第7番)に対して夢中になっていたが、のちにはハ短調(第5番)の方が一層優れていると言ったと伝えています。

ウェーバーとも生前に親交があった。1822年のウィーンでの『魔弾の射手』上演の際に知り合い、シューベルトの歌劇『アルフォンソとエステレッラ』をドレスデンで上演する協力を約束したが、のちの『オイリアンテ』についてシューベルトが、「『魔弾の射手』の方がメロディーがずっと好きだ」と言ったために、その約束は果たされなかったそうです。

シューベルトはのちの作曲家に大きな影響を与えた。『大ハ長調交響曲』を発見したシューマンは言うに及ばず、特に歌曲、交響曲においてメンデルスゾーンブラームスブルックナー、ヨーゼフ・シュトラウス、ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウスドヴォルザークなどはシューベルトの音楽を愛し、影響を受けた作曲家は多い。

 

第1楽章 Adagio - Allegro vivace

ニ長調、2分の2拍子。アダージョの序奏から始まるが、これは分散和音の音形を主としている。またソステヌートの部分では、半音階的進行が見られる。音階進行主体の第1主題、分散和音主体の第2主題が提示される。再現部では序奏が音価を2倍に引き伸ばした形で再現され、そのまま第1主題へと続く。この書法は、後に交響曲第8番の同じく第1楽章でも取り入れられている。

第2楽章 Andante

ト長調、8分の6拍子。ハイドンを手本にとっており、 A-B-A-B-Aの形式である。しかし転調や楽器法はシューベルト的である。この楽章のみトランペットとティンパニは使われない。ヴァイオリンによる穏やかな主題で始められ、この主題はのちにフルートを主体にして繰り返される。

第3楽章 Menuetto. Allegro

ニ長調、4分の3拍子。ハイドンモーツァルト風であるが、ベートーヴェンスケルツォ的な性格に近い。自筆稿には初めAllegro vivaceと書かれ、この上に上記の指定が上書きされている。レントラー風のトリオ(ニ長調)はシューベルト独自の作風である。

第4楽章 Allegro vivace

ニ長調、4分の4拍子。ソナタ形式ロッシーニに典型を見るイタリア様式とウィーン風な旋律がこの楽章を作り上げていく。第1ヴァイオリンによる第1主題とヴァイオリンとファゴットによる第2主題は動機的には密接な関係であり、小結尾ではこの関係が利用されている。

 

第一楽章 かずメーター 88点

第二楽章 かずメーター 82点

第三楽章 かずメーター 88点

第四楽章 かずメーター 89点

総合的にも第一楽章から第四楽章まで楽しめる交響曲になっています。

かなりハイドンモーツァルト、ベートーベンを意識して書かれた名曲です。

お勧め度、星4つ!

 

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お勧めのCDです。