交響曲、大好き!

交響曲といっても知られていないものも多いと思います。 皆さんが聞きなれた/聞いたことがない交響曲を紹介していければと思います。

オネゲル 交響曲第1番

今回からは、オネゲルという作曲家の作品についてお話します。

f:id:clasical_music_daisuki:20210401084054j:plain

なかなかの美青年ですよね(笑)

アルテュールオネゲル(フランス語: Arthur Honegger、1892年3月10日 - 1955年11月27日)は、スイスとフランスの二重国籍を持ち、主にフランスで活躍した作曲家です。フランス6人組のメンバーの一人です。

ちなみにフランス6人組とは、

ルイ・デュレ(Louis Durey, 1888年 - 1979年)
アルテュールオネゲル(Arthur Honegger, 1892年 - 1955年)
ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud, 1892年 - 1974年)
ジェルメーヌ・タイユフェール (Germaine Tailleferre, 1892年 - 1983年) ※唯一の女性
フランシス・プーランク(Francis Poulenc, 1899年 - 1963年)
ジョルジュ・オーリック(George Auric, 1899年 - 1983年)

です。

1892年の3月12日にスイス人の両親の元、ルアーブルに生まれます。本来「オスカル=アルテュールオネゲル(Oscar-Arthur Honegger)」という名前でしたが、「オスカル」の部分は使われることはありませんでした。父アルテュールオネゲル=ユルリックはコーヒーの輸入商社の支配人を務めていた人物で、母と同じく音楽の愛好家でもありました。音楽好きでピアノも得意だった母ジュリー・ユルリックから音楽の手ほどきを受け、最初ヴァイオリンを習いますが、作曲の試みがこの最初の頃から行われていたとオネゲル自身が語っています。また1904年頃には詩や小説の創作を試みたりしています。

1905年、教会のオルガニストを経て、ソートゥルィユに和声法と対位法の音楽理論の手ほどきを受けました。チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の創設者でチューリッヒ音楽院の院長でもあったフリードリヒ・ヘーガー(1841年 - 1927年)に勧められ作曲家を志します。1910年に故郷のルアーブルで最初の作品である『ピアノのための3つの小品』が出版されます。1911年パリ音楽院に入学。ダリウス・ミヨーは同窓生で、以後生涯にわたって特別の親友となります。

第一次世界大戦の際はスイス軍に従軍し、一時国境警備などにも就きますが、まもなくパリに戻り、以降生涯のほとんどをパリで暮らしました。

1913年に生涯の伴侶となる妻アンドレ・ヴォラブールと出会い、数年後に結婚しました。

フランス近代の作曲家と考えられるようになったのはこうした経歴と、コクトーのグループに属し、フランス6人組という形で世に出たことも影響しています。しかし自身はプロテスタントで、チューリッヒに籍を持ち続け、ドイツ語圏のワーグナーなどに強い共感を持っていました。この点で反ワーグナーを標榜していた6人組の他のメンバーとは一定の距離を持っていました。

1921年に発表した『ダヴィデ王』によって、6人組ではなく独立した作曲家として高い評価を受け、1925年にパリでクーセヴィツキーによって初演された交響的断章(運動)第1番『パシフィック231』が大評判となり、一躍時代の寵児となりました。

1934年から1935年にかけて、イダ・ルビンシュタインを想定し、ポール・クローデルの協力で生み出された劇的オラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』が作曲・完成され、初演は熱狂的な大成功を収めます。

1945年以降はあらゆる領域で新たな地平を発見する目的で、ドイツ、ベルギー、イギリス、オランダ、ポーランドチェコスロヴァキア、イタリア、スペイン、ギリシャなどヨーロッパの主要な国へ旅行しました。

1947年夏にアメリカへ自作の指揮と講演を行うために来訪していたが、ニューヨークで狭心症(心疾患)を患って倒れ、少しずつではあったが4ヶ月後に回復しました。回復後もこの疾患はオネゲルの身体に大きな打撃を与え、帰国後はドイツやスイスに転地して療養し、治療の一環として食事療法を行いました。この過酷な時期に作曲した最後の作品は『クリスマス・カンタータ』です。

1955年11月27日、パリのモンマルトルの自宅で医師の来診を待っていたオネゲルは、ベッドから起き上がろうとした途端、妻の腕の中で意識を失い、そのまま帰らぬ人となり、63年の生涯を閉じました。死因は血栓症であったそうです。

遺体はモンマルトルの古い教会の近くにあるサン・ピエール小墓地に埋葬されました。

 

交響曲第1番(Symphonie n°1 )は、オネゲルが作曲した5曲の交響曲のうちの1曲です。ボストン交響楽団の創立50周年記念として、セルゲイ・クーセヴィツキーの依頼を受け作曲したものです。1929年から1930年にかけて作曲され、翌1931年2月13日にセルゲイ・クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団によって初演されました。

 

第1楽章 Allegro marcato

展開部を欠く自由なソナタ形式。不協和な響きと押し寄せるリズムの嵐の激しい第一主題とその上の乗っかったレガートなやや抒情的な第二主題との対比に特徴があります。全体で六分程の短く、簡潔にまとめられた感もあります。
 この楽章だけ独立させれば、交響的運動第4番になったかも知れません。そのくらい動きの激しい楽章です。

第2楽章 Adagio

意外にも初演の時の評判は良くなかったそうですが、いやいや大変深い感動を持って響く音楽で、ショスタコーヴィッチの交響曲の緩徐楽章のような趣すらあります。オーケストレーションはよりショスタコーヴィッチのより分厚いですが…。弦と管が応えあいながら次第にクライマックスに昇り詰めて行きます。この楽章が一番長くて、10分程度かかります。オネゲルはここに全体の重心を持ってきていたのだと私は考えています。

第3楽章 Presto

ストラヴィンスキー春の祭典のようにバーバリズム風のバレエ音楽のような開始ですが、この曲の中で最も調性的な響きを持って明るく飛び跳ねるような楽想が続き、それが次第に盛り上がった後、すぅーっとアンダンテ・トランクィーロ(=ややゆっくり、静けさをもって)に移ります。そして抒情的な響きの中に穏やかな牧歌的世界を歌い上げて曲を閉じます。かなりの緊張を強いるような世界からはじめ、深い宗教的な祈りを通してこの牧歌的な世界に行き着くというのは、実に色んなことを考えさせる終わり方であります。ひょっとしたらオネゲル流の皮肉なのかも知れません。時代はもう戦争に入っているのです。

 

さて、かずメーターですが

第一楽章 88点

第二楽章 86点

第三楽章 89点

基本的に私は現代音楽は聴かないのですが、オネゲルは現代音楽とマーラー世代を繋ぐ音楽性を感じます。とても聴きやすいですが、感情移入はなかなかむずかしいので「感動」までいくのかなぁというのが印象です。

love-classical-musics.hatenablog.com

youtubeですが音源見つけるの大変でした。静かな部屋で聞かれることをお勧めします。

www.youtube.com

お勧めのCDです。