交響曲、大好き!

交響曲といっても知られていないものも多いと思います。 皆さんが聞きなれた/聞いたことがない交響曲を紹介していければと思います。

マーラー 大地の歌

今回はマーラーの曲で番号のついていないのですが交響曲として扱われています「大地の歌」についてお話します。

この曲を初めて聞いたのは約30年も前なんですが、衝撃でしたね。第一楽章からすごい圧をかけてきて最終楽章できれいに消えていく、そして旋律がすべていい…

最高ですよね。

マーラー交響曲ってはずれがないんですよ。私がなんでこんなに早くにマーラーについて書いたかというといままで皆さんが描いていたクラシック感を壊して、どっぷりクラシックにハマっていただければと思ったんですね。

少しでもハマっていただければ幸いです。

 

大地の歌」というメインタイトルに続き、副題として「テノールとアルト(またはバリトン)とオーケストラのための交響曲」(Eine Symphonie für eine Tenor und Alt (oder Bariton) Stimme und Orchester )とあり、通常マーラーが9番目に作曲した交響曲として位置づけられますが、連作歌曲としての性格も併せ持っており、ピアノとソリストのための異稿も存在するため、「交響曲」と「連作歌曲」とを融合させた作品と考えられます。交響曲としてはかなり破格の存在で、「9番目の交響曲」であるという点も影響してか、マーラーは「第○番」といった番号を与えなかったようです。なお、ウニヴェルザール出版社から出版されている決定版総譜には「大地の歌」とだけ記されていて「交響曲」とは全く記されていないところを見ると、歌曲集としての重みも非常に強いようです。

後にこの作品に影響を受けて、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」や、ショスタコーヴィチ交響曲第14番が生まれています。

作曲は1908年。6楽章からなり、テノールとアルト(またはバリトン)が交互に独唱をつとめます。歌詞は、李白(悲歌行など)らによる唐詩に基づき、ドイツの詩人・翻訳家のハンス・ベートゲ(1876年1月9日 - 1946年2月1日)が自由に翻訳・編集した詩集『中国の笛』から7編の詩を選び、これをマーラー自身が適宜改変したものによっています。

マーラーがベートゲの『中国の笛』に出会ったのは作曲の前年1907年秋(同書の出版は同年10月)と考えられますが、その年の夏、マーラーは長女マリア・アンナの死に遭い、自身も心臓疾患の診断を受けていました。同年暮れには、10年間務めてきたウィーン宮廷歌劇場音楽監督を辞任し、渡米するという転機を迎えています。マーラーにとって、死が身近なものとなり、音楽活動だけでなく、実生活面でもヨーロッパとの訣別という心情があったと考えられます。

こうしたもとで作曲された『大地の歌』は、前作交響曲第8番までの、音楽の多声的かつ重層的な展開によって獲得していた多義性は影を潜め、これに代わって、色彩的で甘美、かつ耽美的な表現が全面に打ち出されています。書法的にも和声的・ホモフォニー的な進行が顕著になっています。とはいえ、このような特徴は、すでに交響曲第8番や第7番でも萌芽的に見られていたものです。

マーラーの作曲活動は、交響曲と歌曲が大きな柱となっていますが、『大地の歌』はこの両者が融合された傑作として、マーラー作品のなかでは親しみやすい交響曲第1番、第4番とともに、早くから受容されてきました。同時に、この曲から聴き取れる東洋的な無常観、厭世観、別離の気分は、つづく交響曲第9番とともに、マーラーの生涯や人間像を、決定的に印象づけるものとなっています。

演奏時間約60分。

なお『大地の歌』という日本語の訳題について、柴田南雄は「おそらく1939年に日本で発売されたブルーノ・ワルター指揮のレコード発売時の邦訳であろうが、時期からして、パール・バックの『大地』を踏まえて付けられたのは疑いない」と断定しています。

 

第1楽章「大地の哀愁に寄せる酒の歌」アレグロ・ペザンテ

詩は李白「悲歌行」に基づきますが、自由に改変されています。テノール独唱。

ホルンの斉奏で始まり、劇的でペシミスティックな性格が打ち出されています。歌詞は3節からなり、各節は「生は暗く、死もまた暗い」という同じ句で結ばれます。この句は最初はト短調、2回目に変イ短調、3回目にはイ調(長調短調の間を揺れ動く)と半音ずつ上昇して強調されています。

諸井誠はこの第1楽章と次の第2楽章について、ソナタ形式として分析することが可能だとしています。

 

第2楽章「秋に寂しき者」

Etwas schleichend. Ermüdet(やや緩やかに、疲れたように)

詩は銭起「效古秋夜長」とされてきましたが、近年は疑問視されており、張籍もしくは張継との説がああります。ソナタの緩徐楽章のようです。アルト独唱。

 

第3楽章「青春について」

Behaglich heiter(和やかに、明るく)

詩は李白「宴陶家亭子」に基づきます。テノール独唱。

ピアノ稿の題名は「陶製の亭」で、ベートゲの題名をそのまま使っています。ベートゲは原詩の「陶家」(陶氏の家)を「陶器の家」と誤訳しています。

音楽は五音音階を用いて東洋的な雰囲気を醸し出している。

 

第4楽章「美について」

コモド・ドルチッシモ 

詩は李白「採蓮曲」に基づきます。アルト独唱。

ピアノ稿の題名は「岸辺にて」で、ベートゲの題名をそのまま使っています。蓮の花を摘む乙女を描く甘美な部分と馬を駆ける若者の勇壮な部分が見事なコントラストを作っています。

 

第5楽章「春に酔える者」

アレグロ

詩は李白「春日酔起言志」に基づきます。唐詩の内容に最も忠実とされます。

ここでも管弦楽の間奏部分などに五音音階が顕著に用いられています。テノール独唱。

 

第6楽章「告別」

Schwer(重々しく) 拡大されたソナタ形式。アルト独唱。

演奏時間にして全体の4割以上を要する長大な楽章です。詩は前半部分が孟浩然の「宿業師山房期丁大不至」、後半部分が王維の「送別」によっています。ベートゲの詩は唐詩に忠実だが、マーラーが2つの詩を結合させた上、自由に改変、追加しています。

曲の最後は「永遠に」の句を繰り返しながらハ長調の主和音(ハ-ホ-ト)に至りますが、和音に音階の第6度音のイ音が加えられて(ハ-ホ-ト-イ)となっているため、ハ長調ともイ短調ともつかない、閉じられない印象を残します(この和音は、ベルクのヴァイオリン協奏曲(変ロ-ニ-ヘ-ト)でも結尾に使われているほか、後にはシックスス・コードとしてポピュラー音楽でも多用されます)。マーラーはこの部分にGänzlich ersterbend (完全に死に絶えるように)と書き込んでいます。

この楽章のみで約30分の演奏時間を持つ、非常に長大な楽章です。

 

大地の歌』は、交響曲第8番に次いで完成され、本来ならば「第9番」という番号が付けられるべきものでした。しかし、ベートーヴェン交響曲第10番 (ベートーヴェン)を未完成に終わらせ、またブルックナーが10曲の交響曲を完成させたものの、11番目にあたる第9交響曲が未完成のうちに死去したことを意識したマーラーは、この曲に番号を与えず、単に「大地の歌」としました。その後に作曲したのが純然たる器楽作品であったため、これを交響曲第9番とした。マーラーは続いて交響曲第10番に着手したのですが、未完に終わり、結局「第九」のジンクスは成立してしまった、というのが通説となっています。

これとは逆に、つづいて第9交響曲を作曲すれば「10曲」として数えることができるために、交響曲としては破格のこの曲に、あえて「交響曲」の名称を与えてジンクスの「緩衝地帯」としたとする説もあります。この説は、ブルックナーが実際には10曲以上書いていることからすると、説得力に欠けます。ただし、『大地の歌』が交響曲として「破格」という点では、明確にソナタ形式を用いた楽章を欠き、強い歌曲的性格と書法に加えて、『亡き子をしのぶ歌』同様、ピアノ稿も同時に作曲されていた経過からして、そのような判断がマーラー自身にあったとも考えられます。『大地の歌』に番号が付されていない理由として、上記のジンクス説は、この曲の性格とマーラーの心理の一面を物語るものではあっても、それがすべてとはいえません。

これまでのマーラー作品は、マーラー自身によって初演され、出版までに楽譜に手が加えられる過程で、表現がより明確にされ、標題などの位置づけも練り上げられて完成度が高められてきました。しかし、『大地の歌』はマーラーの死によって、それが果たされませんでした。このことは、「第九」のジンクスが、現在まで神話的に語られる要因となっています。事実上のアレグロソナタや緩徐楽章を持った歌曲集でもあります。

 

さて、マーラー大地の歌を「かずメーター」で評価しました。

第一楽章 94点

第二楽章 90点

第三楽章 92点

第四楽章 91点

第五楽章 89点

第六楽章 90点

とてもいい曲です。第六楽章はちょっとむずかしいんですけど、歌詞を読んでいただくとより理解しや少なるんじゃないかと思います。

love-classical-musics.hatenablog.com

今日はマーラーのお弟子さんであるブルーノワルター指揮で聴きましょう!

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お勧めのCDです。

 

歌詞も書いてみますね。

第1楽章 大地の哀愁に寄せる酒の歌

李白の詩「悲歌行」による

なんと美しくあることか、黄金の杯を満たすこのうま酒は、
しかし飲むのを待たれよ、まずは歌でも一つ歌おうぞ!
憂愁を誘うこの歌を
君たちの心に哄笑として高鳴らせよう。
憂愁が迫り来ると、
心の園も荒涼でいっぱい。
歓びの情もその歌う声もしおれ果て消えゆくかな。
生は暗く、死もまた暗い。

この家の主よ!
君が酒蔵には黄金の酒が満ちている!
ここにある琴を、私の琴としよう!
この琴をかき鳴らし、盃を尽くすことこそ
最もふさわしいだろう。
ほどよき時に、なみなみと注がれた一杯の盃は、
この大地の全ての王国にも優る!
生は暗く、死もまた暗い。

天空は永久に蒼(あお)く、しかも大地は
永遠に揺るがずにあり、春ともなれば花咲き乱れる。
だが人間たる君よ、君はどれだけ生き長らえていくものか?
君は百歳とは慰(なぐさ)むことは許されぬ、
全てこの大地の儚(はかな)き戯れの上では!

そこかしこを見下ろしたまえ!
月光を浴びた墓の上に
座してうずくまる者は荒々しくも不気味な物影、
それは猿一匹! 聴け、その叫びが
この生の甘美な香りに甲高く絶叫する様を!

いまこそ酒をとれ!
いまこそ、その時だ、友よ!
この黄金なる盃を底まで飲み尽くせ!
生は暗く、死もまた暗い!

 

第2楽章 秋に寂しき者

銭起の詩「效古秋夜長」による?

秋の霧が青らみ湖面を渡り、
霜がすべての草草を白く包み
あたかも匠(たくみ)の手が玉光のこまやかな粉を
美しく咲き誇る花の上に
まき散らしたかのようだ。
花のかぐわしき香りは、すでに飛び流れ去り、
その茎は冷たい秋の北風がうち吹かれ横たえた
枯れしぼみ金色に染まった睡蓮(すいれん)の花も
ことごとくやがては池の面に浮かび出すだろう

私の心は疲れ果て
私のささやかな灯も幽かな音とともに消え
私は一人想い寝の眠りに誘われる心安らぐ憩いの場所
私はそなたのもとへ行こう
そう今こそ私に憩いを与えておくれ
私はささやかに回復を欲するだけだ
私は一人孤独のうちに涙ぐみ、
心の奥にひそむこの秋は
果てしなく広がりわたる太陽よ!
そなたは慈悲深く、再び輝きあらわれて
私の苦きこの涙をやさしく拭い去ってはくださらぬか?

 

第3楽章 青春について

李白の詩「宴陶家亭子」による

ささやかな池のその真ん中に
立ったのは緑の陶土と
白磁なる陶土でできた東屋よ

虎の背に凭(もた)れたかの形して
硬玉(ダイヤの玉)でつくった橋
丸く架かって東屋にいたる

小さな家に籠(こ)もる朋友(ほうゆう)
着飾り、杯あげて、談笑を交わして
詩を書きつける者もまた多し

その絹地の袖は背中にすべりきくずれて
その絹地の冠帽子は襟首に
可笑しくぶら下がる

ささやかな池の面の
ひそかやかな水に辺りのもの全てが
趣深く映っている

逆さまに映り立たないものはない
この緑の陶土と
白磁なる陶土とともになる東屋の中

半月のごとき太鼓橋はかかり
その弧となる姿も逆さまに
美しく着飾り、盃をあげて 談笑交わす

 

第4楽章 美について

李白の詩「採蓮曲」による

うら若き乙女たち 自然にわく水のその池に
花摘む その蓮の花を
岸辺の茂みの中、葉と葉の中に座して
茗荷の花を手折り、膝に集め
嬉嬉たる声をあげ、一緒に交わし合った。

金色の陽は差し照りて、
その乙女たちを包んで
きらめく水面に映し出している
陽は乙女たちのたおやかな肢体と
愛らしい瞳とを逆さまにして映し出している
そしてさらに微風は
乙女たちの袂(たもと)を揺らし
魅惑に満ちた乙女の香りを
日射しの中に振りまいた。

見よあれを
凛々しい少年たちが猛り勇ましい駿馬にまたがり、
駆けめぐる、いかなる者たちよ?
陽の差す光にも似て、きらめき遠ざかり、
はやくも緑なす柳葉の
茂れる枝の木の間より
若人が群がり、現れ走り行く
ひとりの少年の馬は 歓びに嘶(いなな)きて
怖じけながら猛り走り行き
草花の咲く野原の上を越えて
土音たてて馬蹄はよろめき去る
たちまちに嵐のように、落花を踏みしだく
そのたてがみは 熱に浮かれて靡(なび)きひるがえり
その鼻孔は熱い息吹き出し

金色に輝く太陽がそこにあるものを光で包み
静かで清らかな水面にあらゆる影を映し出し
その中でも美しき乙女が顔をあげ、少年へ
送るのは憧憬の眼差し、ながながと追いかける
乙女の誇らしき物腰態度、上辺だけの見せかけに過ぎぬもの
つぶらな瞳の閃きながら火花の中に
熱いその眼差しによぎる暗き影の中にも
心のどよめき、なおも長引き哀しく憧れ秘めている

 

第5楽章 春に酔える者

李白の詩「春日酔起言志」による

人生がただ一場の夢ならば
努力や苦労は私にとって何の価値があろうか?
それゆえ私は酒を飲む 酔いつぶれて飲めなくなるまで
終日酒に溺れようぞ。

喉も魂までも溺れ酔いしれて
ついに酔いつぶれて飲めなくなったら
よろめきながら家の戸口にたどり着き
そのままそこに眠り込んでしまうのだ

目覚めて何を聞くのか さあ聞くがよい
前庭の樹の花 その花の中で鳴くは鶯一羽
私は鶯に尋ね聞く。<もう春になったのか>と
私はいまだに夢心地まどろむ

鶯囀(さえず)り、《そうです。春はすでにやって来た。
闇夜を渡り、春はここにやって来た》と
そうして私は聞き惚れ感じ入り、見つめれば
鶯はここぞとばかりに歌い、笑うのだ

私は新たに手ずから酒杯を満たし
盃傾け、飲み尽くす底までも、そして歌うのだ
明月が黒き帳の下りた夜空に昇り、輝き渡るまで

もし私がもはや歌えなくなったなら
その時、私はもう一度眠り込む
いったい春は私に何の役に立つのか
だから、このまま酔わせてくれ!

 

第6楽章 告別

孟浩然の詩「宿業師山房期丁大不至」と王維の詩「送別」による

夕陽は西の彼方の向こうに沈み
日没過ぎて、しんしんと冷気満ち、
暗闇迫り、渓谷すっぽり包み込む
おお、あれを見よ。銀の小舟のように
月はゆらゆら蒼天の湖にのぼりゆき
私は松ヶ枝の暗き木陰にたたずんで
涼しげな風を身に受ける

美しき小川のせせらぎ 心地よく
この夕闇を歌い渡るぞ
花は黄昏(たそがれ)淡き光に色失う
憩いと眠りに満ち足りて 大地は息づく
全ての憧れの夢を見ようとし始める

生きる苦しみに疲れし人々 家路を急ぎ
眠りの内に過ぎ去りし幸福と青春
再びよみがえらそうとするように

鳥は静かにすみかの小枝に休みいて
世界は眠りに就くときぞ

私のもとの松ヶ枝の木陰に夜陰は冷え冷えと
私はここにたたずんで君が来るのを待つばかり
最後の別れを告げるため、私は友を待ちわびる

ああ、友よ。君が来たれば傍らで
この夕景の美しさともに味わいたいのだが
君はいづこか。私一人、ここにたたずみ待ちわびる

私は琴を抱え、行きつ戻りつさまよいて
たおやかな草にふくよかな盛り土、
その道の上にあり
おお、この美しさよ、永久の愛に−
その命にー酔いしれた世界よ

友は馬より降り立ちて、
別れの酒杯を差し出した
友は尋ね聞く。〈どこに行くのか〉と、
そしてまた〈なぜにいくのか)と

友は答えたが、その声愁いに遮られ、包まれて
〈君よ、私の友よ、この世では私は薄幸なりし
一人今からいずこに行こうか
さまよい入るのは山中のみさ〉

私の孤独な心 癒すべく憩いを自ら求めゆき
私が歩み行く彼方には、私が生まれし故郷あり

私は二度と漂泊し、さまようことはあるまいよ
私の心は安らぎて、その時を待ち受ける

愛しき大地に春が来て、ここかしこに百花咲く
緑は木々を覆い尽くし 永遠にはるか彼方まで
青々と輝き渡らん
永遠に 永遠に……