ドヴォルザーク 交響曲第6番
さて、今回はドヴォルザークの交響曲第6番についてお話します。
交響曲第6番ドヴォルザークが1880年に作曲した交響曲です。作曲を依頼したハンス・リヒターに献呈されました。ドヴォルザークの交響曲としては最初に出版されたため、当初は交響曲第1番とされていました。ドヴォルザークの他の交響曲同様、しばしばブラームスの影響が指摘されます。
19世紀後半から20世紀初頭を代表する指揮者であるハンス・リヒターが、1879年11月某日ウィーンフィルの演奏会で取り上げたのはドヴォルザークのスラブ狂詩曲第3番でした。演奏会に先立って行われたドレスリハーサル(貴賓を招いての演奏会形式でのリハーサル)は好評で、作曲者ドヴォルザーク自身もステージ上に呼ばれ喝采を浴びています(この時ブラームスも同席していた事がドヴォルザーク本人の手紙に書かれています)。
にもかかわらず、演奏会本番では聴衆の反応は冷ややかでした。
不本意な結果を受け、リヒターはすぐさまドヴォルザークに新しい交響曲の作曲を迫りました。この新進の作曲家の力量を是非ともウィーンの聴衆に認めさせたかったのです。斯くして、翌年書き上げられたのが、第6番です。
ところが完成してみると、リヒターは出来栄えを称賛したものの、なぜか理由をつけてなかなか初演しようとしませんでした。実は当時ウィーンでオーストリア帝国内の民族運動への反感が高まっており、チェコ人の作品を取り上げにくい情勢になっていたのです。
しびれを切らせたドヴォルザークは、結局プラハでチェコフィルによる初演を実現させてしまうのですが、リヒターはその不義理を埋め合わせるかのように1882年にロンドン公演でこの曲を演奏しています。
結果的にこれがドヴォルザークの名声を高める事になる。
ロンドンの演奏会は大成功で、またジムロック社から出版された本作の楽譜も諸方面から注目を集め、ついにはロンドン・フィルハーモニック協会から交響曲第7番の作曲を依頼されるまでになります。
曲はブラームスの交響曲第2番(1877年ウィーン初演)を思わせます。1楽章と4楽章は調性・拍子・構成ともにブラームスの曲に倣っています。これは当初初演を想定していたウィーンの聴衆に合わせた趣向であったと考えられます。とは言えドヴォルザークらしさに溢れており、ブラームスの交響曲の類似性など言われなければ気づかない程です。
なお、最初に出版された交響曲だったため長い間、第1番とされていましたが、ドヴォルザーク自身は、この曲を最後まで第5番と呼んでいました。ドボルザークは紛失したと思い込んでいた本当の第1番の交響曲の草稿が発見でされて、やっと第6番の交響曲と呼ばれるようになったのは、リヒターが願って果たせなかったウィーンフィルによる初演(1942年)の10年ほど前の事です。
第1楽章 Allegro non tanto
第2楽章 Adagio
自由なロンド形式。A-B-A-C-A-B-A'の構成となっており、Aがロンド主題となります。ベートーヴェンの交響曲第9番の影響が見られます。
第3楽章 Scherzo: Furiant (Presto)
三部形式。初演の際、アンコールとして繰り返されました。
第4楽章 Finale: Allegro con spirito
さて、かずメーターですが
第一楽章 87点
第二楽章 85点
第三楽章 86点
第四楽章 87点
もう初期のドヴォルザークのイメージはないですね。とても洗練されています。
この曲もおすすめですので是非通しで聞いてください。
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お勧めのCDです。