交響曲、大好き!

交響曲といっても知られていないものも多いと思います。 皆さんが聞きなれた/聞いたことがない交響曲を紹介していければと思います。

ストラヴィンスキー 交響曲ハ調

今回から2回にわたってストラヴィンスキー交響曲についてお話します。

ストラヴィンスキーは計4つの交響曲を作っていますが私が現状2曲しか音源をもっていないのでこの2曲についてお話するとし、後で残りの曲を入手しましたら更新したいと思います。

 

まずは、ストラヴィンスキーについてです。

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イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(ロシア語: И́горь Фёдорович Страви́нский[1]、1882年6月17日 - 1971年4月6日)は、ロシアの作曲家です。

同じくロシアの芸術プロデューサーであるディアギレフから委嘱を受け作曲した初期の3作品(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)で知られるほか、指揮者、ピアニストとしても活動しました。20世紀を代表する作曲家の1人として知られ、20世紀の芸術に広く影響を及ぼした音楽家の1人です。

第一次世界大戦まで

1882年6月17日、サンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウム(現・ロモノソフ)に生まれ、首都のサンクトペテルブルクで育ちました。ストラヴィンスキー家は16世紀末にさかのぼるポーランド系小貴族で、伝統的にその領地はリトアニア大公国の中にあったが、徐々に没落していきました。父のフョードルは三男だったために財産を受け継ぐことはなかったのですが、マリインスキー劇場づきの、当時のロシアを代表するバス歌手として有名だったそうです。

1901年、イーゴリは現在のサンクトペテルブルク大学法学部に入学しましたが、その一方で週に一度音楽理論を学びました。法学部で知りあったリムスキー=コルサコフの末子であるウラディーミルの勧めによって、1902年夏にリムスキー=コルサコフと会い、個人授業が受けられることになりました。同年11月に父が没しました。

リムスキー=コルサコフの授業は最初は不定期だったようですが、1905年秋ごろから定期的なレッスンを受けるようになりました。大学は1906年4月に学位を取得しました(1905年に卒業したが、血の日曜日事件以降の大学の混乱で学位取得が1年遅れたそうです)。

初期の管弦楽作品としては『幻想的スケルツォ』(1908)と『花火』(1909)が優れていますが、リムスキー=コルサコフは1908年6月に没し、これらの曲の初演を聞くことはできませんでした。自伝によればバレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフはこの2曲を聞いてからストラヴィンスキーと親密な関係を持つようになったといいますが、実際のところはよくわかっていません。ディアギレフから最初に頼まれた仕事はバレエ『レ・シルフィード』のためにショパンピアノ曲管弦楽用に編曲することでした。

1910年にはバレエ・リュスのために作曲した『火の鳥』がパリのオペラ座で初演され、大成功を収めます。翌1911年には、第2作『ペトルーシュカ』が初演され、これも成功を収めます。さらに1913年、第3作『春の祭典』がパリで初演された。この上演は楽壇をセンセーショナルな賛否両論の渦に巻き込み、初演においては観客の怒号が演奏をかき消すほどであったと伝えられていますが、その後すぐに評価は急上昇し、これも大成功を収めることとなりました。これら3作によってストラヴィンスキーは若手の革命児として名を刻まれる事になったのです。

ストラヴィンスキーはそれまでも夏をウスティルーフ(現ウクライナ)、冬をスイスで過ごしていましたが、1914年、第一次世界大戦が勃発するとウスティルーフには帰れなくなり、スイスに居を定めました。1917年に起きたロシア十月革命により故国の土地は革命政府に没収され、ロシアからの収入も得られなくなり、またバレエ・リュスの公演も戦争に妨げられて思うにまかせず、ストラヴィンスキーの生活は苦境に陥りました。このころ作曲された曲はロシアの民衆詩や寓話による土俗的な『きつね』、『結婚』、『兵士の物語』などがあり、ストラヴィンスキーの新しい局面を示しますが、ほとんどの曲は戦時中には上演する機会がありませんでした。

両大戦間

戦後の1920年にパリで初演された『プルチネルラ』はまだスイスに住んでいた時に作曲された曲ですが、18世紀の音楽の旋律と形式をそのまま使いながら、新しい管弦楽法で音楽に新しい命を吹き込んだもので、1921年以降フランスに落ち着いてから作られるようになる新古典主義音楽のはしりでした。ストラヴィンスキー新古典主義時代は1951年のオペラ『放蕩者のなりゆき』まで続きます。

1920年からフランスに住みましたが、住所はカランテック(ブルターニュ地方)、ギャルシュ(パリ近郊)、アングレットおよびビアリッツ(南西フランス、1921-1924)、ニース(1924-1931)、ヴォレップ(グルノーブル近郊、1931-1934)と、一定しなかったそうです。

ディアギレフとの関係は続きましたが、戦前よりも疎遠になり、1923年に初演された『結婚』がバレエ・リュスのために書いた最後の曲になりました。ストラヴィンスキーはまたキリスト教に傾倒するようになり、1926年にはロシア正教会に回帰しました。1920年代に作曲された主要な曲には『八重奏曲』『エディプス王』『ミューズを率いるアポロ』などがあります。この時代、ストラヴィンスキーはピアニストとしてもデビューし、ピアノ用に『ピアノと管楽器のための協奏曲』『カプリッチョ』『ピアノソナタ』『イ調のセレナーデ』などを作曲しています。

1929年にディアギレフが没した後は、ヴァイオリニストのサミュエル・ドゥシュキンのために書いた曲や、アメリカ合衆国からの注文で書いた曲が主になります。『詩篇交響曲』『カルタ遊び』『ダンバートンオークス協奏曲』はいずれもアメリカからの依頼で書いたものです。

1934年にフランス市民権を得てパリに住むようになりますが、1938年に長女を結核で失い、翌年には妻と母を失います。当時ナチス政府は前衛的なストラヴィンスキーを快く思っておらず、1938年には退廃音楽として誹謗されました。またフランス人はストラヴィンスキーの新作に興味を持たなくなっていきました。

アメリカ時代

ストラヴィンスキーは1925年にはじめてアメリカ合衆国を訪れ、1935年と1937年にも渡米しています。第二次世界大戦開戦直後の1939年9月にハーバード大学からの依頼によって渡米して音楽に関する6回の講義(のちに『音楽の詩学』の題で出版)を行うが、そのまま米国にとどまり、ハリウッドに住みました。フランスで書きはじめられた『交響曲ハ調』はアメリカで完成することになります。1945年にはアメリカ合衆国の市民権を得ました。『3楽章の交響曲』、バレエ『オルフェウス』、『ミサ曲』、オペラ『放蕩者のなりゆき』などがこの時代の代表作です。

アルノルト・シェーンベルクが没した1951年頃より、これまで否定的だった十二音技法を少しずつ採用して新たな創作の可能性を開く。70歳近くになってからの作風の変貌は世間を驚かせまし。その後も1966年までの約15年に20曲ほどを作曲しています。この時代の作品には『七重奏曲』、『カンティクム・サクルム』『アゴン』『トレニ』『アブラハムとイサク』『J.F.ケネディへの哀歌』などがあります。

1959年、来日し、日比谷公会堂フェスティバルホールで演奏会を行ました。また日本の若手作曲家の武満徹を見出して世界に紹介しました。これはのちにバーンスタインが、ニューヨーク・フィル125周年記念の曲を武満に委嘱するきっかけにもなりました。

1962年、キューバ危機のさなかに80歳のストラヴィンスキーソ連を訪問します。1914年に祖国を離れて以来、最初にして最後の帰郷でした。

長期にわたって作曲を続けてきたストラヴィンスキーも、やがて健康上の理由によって音楽活動の中止を余儀なくされるようになりました。1966年、84歳を最後として新しい曲は作曲されず、1967年以降は指揮も行わなくなりました。1968年には最後の編曲を完成させたが、それ以後も完成こそしなかったもののいくつかの曲の編曲には手を付けていました。1967年後半は胃潰瘍血栓症で長期間入院しました。最晩年はロバート・クラフトの勧めでレコードを聞いて過ごしました。作曲家から鑑賞者への立場の変化に不満を持ちつつも、とくにベートーヴェンを好んだそうです。

1969年、ニューヨークのエセックスハウスに転居し、1971年4月6日に88歳で没しました。ディアギレフの眠るヴェネツィアサン・ミケーレ島に埋葬されたそうです。のちに、妻ヴェラ(1889〜1982)もイーゴリの隣に埋葬されています。

死後、革命により失われたと思われていた『ピアノソナタ嬰ヘ短調』などの初期作品がレニングラード州立図書館から発見され、刊行されました。2015年にはリムスキー=コルサコフ追悼のために書いた『葬送の歌』作品5が発見されています 。本作はストラヴィンスキーが生前に『火の鳥』以前に書かれた作品では最高の作品だと述べていて、紛失を悔やんでいたものでした。

 

さて、続いて曲についてです。

交響曲ハ調は、ストラヴィンスキーが作曲した交響曲の一つです。1938年、『協奏曲「ダンバートンオークス」』を作曲したストラヴィンスキーは、同曲の依頼者であるミルドレッド・ブリス夫人(ロバート・ウッズ・ブリスの妻で、パトロン)から、1940-41年のシカゴ交響楽団の創立50周年を祝うための交響曲の作曲を依頼されました。同年秋から作曲を開始したが、この時期はストラヴィンスキーの生涯で最も波乱に満ちた時期でした。当時彼の住んでいたパリで娘、妻、母を相次いで失ったのち、講演のために1939年9月にアメリカ合衆国を訪れましたが、第二次世界大戦の勃発のためにそのままアメリカに住むことになりました。戦争によって子供たちとは離ればなれになり、ヨーロッパからの収入も見込めなくなりました。この交響曲は何度も中断しながらも、アメリカリフォルニア州ビバリーヒルズで1940年8月17日に完成しました。前半の2楽章がヨーロッパで、後半がアメリカで書かれました。1940年11月7日、シカゴ交響楽団と作曲者自身の指揮により初演されました。

1934年に書かれた自伝では『詩篇交響曲』を書くときに、「十九世紀によってわれわれにのこされた交響曲という形式にはほとんど興味がなかった」と言っていますが、『交響曲ハ調』は4楽章からなる伝統的な交響曲であり、その第1楽章はソナタ形式に従ってすらいます。自伝が書かれてから短期間の間に大きな心境の変化があったことになります。

『管楽器のための交響曲』は全然交響曲ではなかったし、『詩篇交響曲』も交響曲というよりは合唱曲に近いため、『交響曲ハ調』は1907年に書かれた作品1の交響曲以来久しぶりの本格的な交響曲です。

この曲については評価が分かれ、交響的形式に関してストラヴィンスキーの到達した最高峰として高く評価する人もある一方で、交響曲の上辺の形式をなぞっただけの欠陥作とする意見もあります(後者の代表がエルネスト・アンセルメ)。かつてはいかにもストラヴィンスキーらしい激しいリズムを持った『3楽章の交響曲』が人気があったのに対して『交響曲ハ調』は無視されていました。

実際には『交響曲ハ調』は表面的には古典的な交響曲の形をしているが、聞く者の期待を意図的・効果的に遅らせたり裏切ったりしており、凡庸さはまったくありません。ウォルシュも、表面的には交響曲でありながら、古典的交響曲とは本質的に異なるストラヴィンスキーの音楽になっていると評しています。演奏時間は約30分です。

 

第1楽章 Moderato alla breve

ソナタ形式だが、第1主題と関連する豊富な素材を利用しています。

第2楽章 Larghetto concertante

優美な旋律を持つ緩徐楽章で、ソロが目立ちます。

第3楽章 Allegretto

スケルツォで、楽譜の上ではほとんど1・2小節おきに拍子が変わっています(耳で聞くだけではあまり気づかない)。トリオにあたるゆっくりした部分の後、曲の最初には戻らず、フーガが始まります。最初の旋律は曲の一番終わりになって戻ってきます。ホワイトは第3楽章を舞曲による組曲に似ていると評し、バビッツはこの曲がメヌエットパスピエ、フーガから構成されるとしています。

第4楽章 Largo – Tempo giusto alla breve

ファゴット・ホルン・トロンボーンによるラルゴの序奏を持つ。第1楽章の旋律も戻ってきて、かなり複雑に進行するが、大いに盛り上がった後、コラール風に静かに終わる。

 

さて、かずメーターですが、

第一楽章 84点

第二楽章 83点

第三楽章 83点

第四楽章 85点

感想としては「ストラヴィンスキー、ちゃんと交響曲、書けるじゃん!」と思ってしまいました(失礼!)。どうしてもバレー3部作の印象やアメリカ時代の前衛傾向の曲かなぁと思ったら、めちゃくちゃわかりやすい交響曲になっています。アンセルメもちょっとその評価は無いんじゃないのと思ってしまうくらい純粋な曲です。後味もとてもいい曲です。

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