交響曲、大好き!

交響曲といっても知られていないものも多いと思います。 皆さんが聞きなれた/聞いたことがない交響曲を紹介していければと思います。

ベルリオーズ 幻想交響曲

今回はベルリオーズの名作中の名作、「幻想交響曲」についてお話します。

 

いきなりぶっちゃけますと一番大好きな曲なんですが、交響曲に入れていいのか戸惑い、あえて入れていませんでした。でも交響曲って名前に入っているし、歴史への貢献度から入れさせていただきます。

私のベルリオーズ幻想交響曲との出会いは後述のシャルル・ミュンシュの衝撃的な演奏でしたが、他の曲を聴くきっかけを作ってくれたのはエリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団ベルリオーズシリーズでした。当時は全部買って聞きましたね。今は音源も残っていないのは残念です。

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まずは、ベルリオーズの生涯について…

 

幼年期

ベルリオーズはフランス南部イゼール県のラ・コート=サンタンドレ(La Côte-Saint-André)に生まれます。ここはリヨンとグルノーブルのほぼ中間に位置する場所です。母親のマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン、父親で開業医のルイ=ジョセフ・ベルリオーズとの間で、長男として育てられます(このうち6人中2人は早世)。

1809年、6歳の時から町の教会に付属する小さな神学校に入学しますが、間もなく1811年末に閉鎖されてしまい、18歳になるまで家庭で父親の手によって教育されました。家庭ではラテン語、文学、歴史、地理、数学、音楽(初歩程度)を習ったそうです。

青年期

1817年ないし1818年頃、14歳のベルリオーズは父親の机の引き出しからフラジオレットを見つけ、吹く練習をする息子の様子を見た父親は楽器の使い方を説明し、程なくしてフルートを買い与えました。その後15歳になってからはギターも習い始めています。

作曲は同年頃に独学で学び始め、父親の蔵書からラモーの『和声論』を見つけるものの、理論の基礎ですら身につけていない彼にとっては難解なものであったそうです。しかしシャルル・シモン・カテルの『和声概論』を読んだ時は、最初は難解でしたが徐々にのみ込んでいったそうです。ある程度の知識を得て作曲・編曲に挑戦し、室内楽曲、歌曲、編曲作品を作曲しています。

1821年、18歳の時にグルノーブルで行われたバカロレア(大学入学資格試験)に合格し、家業を継ぐ名目でパリに行き、医科大学に入学します。しかし青年ベルリオーズは解剖学を学んでいる途中で気がひるんでしまい、次第に医学から音楽へ興味が移り、オペラ座に通うようになります。それから1年後の1822年に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めました。この時期に医学大学に行く代わりに、コンセルヴァトワールの図書館に行っています。そこでは楽譜を複写したり、楽曲の分析などを試みたりしています。同時にベルリオーズは再び作曲を始めており、フランスの詩人ミルヴォワの詩によるカンタータ『アラブの馬』(H.12)と3声部のカノン(H.13)を作曲しています。前者のカンタータは独唱と大管弦楽のための作品であるが、カノン(H.13)を含む2つの作品はいずれも紛失しています。

1823年にパリ音楽院に入学して、音楽院の教授ジャン=フランソワ・ル・シュウールにオペラと作曲を学びました。

音楽院時代とローマ賞

ジャン=フランソワ・ル・シュウールの下で音楽を学び、2年後の1824年に最初の本格的な作品である『荘厳ミサ曲』(H.20)を作曲。1825年にパリのサン・ロッシュ寺院で楽長のマッソンによって初演されましたが、未熟であるがために失敗します。この後に作品を大幅に加筆修正を行い、同年にオーギュスタン・ドゥ・ポンスに借金をして再演され、成功を収めます。またこの頃からローマ賞に挑戦することに意欲を掻き立てていました。

1827年からローマ賞に挑戦し、同年の7月に応募作としてカンタータオルフェウスの死』(H.25)を作曲します。しかし選外に終わります。その後も以下のように毎年応募する。また9月に当時熱狂的に話題を呼んでいたイギリスから来たシェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンの出演する舞台を見て、衝撃を受けます。このことが2人の運命的な出会いでした。

1828年の3月、音楽院で開かれたフランソワ・アブネックの指揮による第1回のパリ音楽院管弦楽団定期演奏会ベートーヴェン交響曲第3番『英雄』を、また同年に第5番『運命』を聴いて、大きな啓示を受けます。6月、2度目となるローマ賞への挑戦として『エルミニー』(H.29)を作曲。惜しくも2票の差で第2位となります。

1829年ゲーテの『ファウスト』(ジェラル・ド・ネドヴァルの仏語訳による)を読んで感銘を受け、このテキストを用いて『ファウストからの8つの情景』(H.33,Op.1)を作曲します。出版の際に「作品1」と番号を付けます。7月に3度目の挑戦となるローマ賞の応募作として、カンタータクレオパトラの死』を作曲しますが、劇的で過激な内容から審査員たちの顰蹙を買い、受賞を果たすことが出来ずに終わります。

1830年2月に『幻想交響曲』を作曲を開始し、6月に完成します。また、この頃にピアニストのマリー・モークと出会って恋愛関係となります。4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』を作曲します。4度目にしてようやく念願となるローマ賞を受賞しました。12月5日に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴び、マリー・モークと婚約に至ります。そして受賞者としてローマへ留学すると同時に留学を終えたら結婚するという約束を交しました。

1831年、ローマに到着した直後に婚約者マリー・モークの母親から手紙が届き、ピアノ製作者イグナツ・プレイエルの長男カミーユプレイエル(英語版)と結婚するという報告がありました。この報告を知るや否や、再び訪れた破局ベルリオーズは落胆するどころか、逆にひどく怒りを露わにしたといわれます。『回想録』には、マリーとその母とカミーユプレイエルを殺して自分も自殺しようと、ベルリオーズは婦人洋服店に急いで行き、女装するために婦人服一式を買い、ピストルと自殺用の毒薬を持参してパリへ向かう馬車に乗り、そのままローマを出発しました。しかしイタリア(サルデーニャ王国)とフランスの国境付近でふと我に返り、直後に思い留まって正気を取り戻したそうです。

この出来事の後、ベルリオーズはニース(当時はサルデーニャ王国領でフランス国境の外)で1ヶ月ほど滞在して療養することとなり、回復後はローマへと戻って行きました。そして正式にモークとの婚約は解消されました。この療養中に『幻想交響曲』の続編と言える抒情的な独白劇『レリオ、あるいは生への復帰』の構想を始めており、ローマに戻った頃には全体の構想を終え、作曲に取り組んだのち7月初旬に完成しています。

帰国後と中期の活動

1832年に上記の事情によってイタリア留学を切り上げる形でパリへ帰国すると、同地で再び音楽活動を始めます。またローマ滞在中に作曲した作品(序曲『リア王』や『レリオ』など)を携えて持ち帰っています。

1833年、劇団の女優ハリエット・スミッソンが『幻想交響曲』を聴きに来た際に再会し、結果的に結婚までに至ります。ベルリオーズの両親は反対しましたが、それを押し通してのことでした。パリ郊外のモンマルトルに新居を構え、自作の演奏会の開催、雑誌や新聞の評論を始めます。

同年に演奏会に来ていたショパンパガニーニと出会い、親交を結びました。

1834年の初め頃、パガニーニからの依頼でヴィオラ管弦楽のための作品である交響曲『イタリアのハロルド』を作曲します。その初演の成功によって金銭的な援助も得ることができました。またこの年に長男のルイが誕生します。

この年にオペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の作曲に取りかかり、1836年の夏に大半が完成します。同時にフランス政府から『レクイエム』の作曲を委嘱され、速いペースで翌1837年に完成しました。初演は同年に行われると成功を収め、ベルリオーズは新聞雑誌から賛辞を浴びたり、陸軍大臣からの祝辞を受けたりしたそうです。

1838年の9月に、オペラ座で『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の初演が行われました。しかし序曲を除いて散々な不評に終わります。原因として全体の総練習が4回であったことや、聴衆の趣向に合わなかったことなどが挙げられます。友人たちは失敗の原因を台本の稚拙であると指摘したが、『回想録』の中では「脚本は気に入っていたのに、どうして劣っているのか、今でもわからない」と語っています。また初演が失敗した直後に母親が亡くなります。

1839年に、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』を完成させます。初演の後、作品をパガニーニに献呈しました。この時期のベルリオーズは莫大な借金を背負っており、生活が苦しく、収入が得られなかったため、音楽院側からの助けで、2月頃にパリ音楽院の図書館員となり、僅かな額ではあったがある程度の収入を得ることができました。1852年には館長に任命されています。

1840年に再びフランス政府から依頼を受けて、『葬送と勝利の大交響曲』を作曲・完成。7月28日に200名の軍楽隊を率いて初演を行いました。しかしこの時期、ベルリオーズはパリの各劇場から締め出しの状態にあったそうです。『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の失敗に拠るものといわれ、また一部で反感を持たれていたために、パリでの人気は次第に下って行きました。

演奏旅行と指揮活動

人気から遠ざかっていたため、1842年に演奏旅行を始めることになり、年末にドイツへ向かい、各地で演奏会を催して大きな話題を呼び、旅行は成功を収めたそうです。しかし一部からは急進的過ぎるという批評も受けました。

1843年5月末、パリに戻ったベルリオーズは、『ドイツ・イタリア音楽旅行記』や『近代楽器法と管弦楽法』などを著作したり、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として『ローマの謝肉祭』を作曲します。一方で妻スミッソンとの仲違いが決定的となり、別居へと至ります。スミッソンはモンマルトルの小さな家で(ひきこもる形で)生活します。ベルリオーズは稼ぐために新聞や雑誌の執筆などに追われ、これまで以上に窮地に瀕していました。

1844年にパリで産業博覧会が開催され、博覧会の終了間際(7月末)に産業館で型破りな演奏会を実施する。8月1日に産業館で行われた演奏会は、新作『フランス讃歌』(H.97)を初演したが、480人のオーケストラ団員と500人の合唱団員を統合したもので、演奏時にはベルリオーズを中心に7人ほどの補助指揮者が指揮棒を持って壇上に登ったという。演奏会は大成功を収めたが、出費が影響して経済的には僅かなものでしかもたらすことができなかったそうです。

1845年の10月から翌年の1846年の4月にかけて、2回目の演奏旅行としてウィーンやプラハブダペストなどへ赴き、各地で演奏会を開催して大歓迎を受けます。ブダペストでの演奏会は、『ラコッツィ行進曲』を管弦楽用に編曲した『ハンガリー行進曲』が演奏された際、聴衆から熱狂的な歓声を送られたといわれます。同じ頃にゲーテの『ファウスト』による劇的物語『ファウストの劫罰』の作曲に着手しており、『ハンガリー行進曲』はこの作品に取り入れています。

ファウストの劫罰』は旅行中の合間を縫って1845年から作曲を始め、パリに帰国した4月の末頃も続けられ、10月に全曲が完成します。12月6日にオペラ・コミック座で初演されたが、20日に行われた再演とともに結果は芳しくなく、成功しなかったといいます。初演の失敗によって多額の負債が降りかかり、破産の危機に直面したものの、友人たちの尽力によって難なく免れます。だがこれを機にベルリオーズは再び演奏旅行に行くことを決意し、次なる場所はロシアでした。

ロシアへの演奏旅行

1847年の2月14日、パリを離れ一人でロシアへ向かいました。ベルリンまで汽車で乗り、滞在中にロシア大公妃エレナ・パヴロヴナ宛ての紹介状を書いて欲しいと当時のプロイセン王に懇願します。3月15日と25日にサンクトペテルブルクで、4月にモスクワでそれぞれ行った演奏会は成功し、喝采を浴びるなど、大歓迎を受けました。この演奏会で4万フランの大金を手にし、ベルリオーズにとって、この大金を得たことはこれが生まれて初めてのことでした。

パリへの帰還から再度ベルリンへ

パリへ向かって帰還する折に、再度ベルリンに立ち寄って、ここでも演奏会を催しています。プロイセン王の求めで『ファウストの劫罰』を演奏し、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世から赤い鷲印の十字勲章を授けられます。またこの夜サン=スーシー宮殿での晩餐会にも招待されています。著書『近代楽器法と管弦楽法』をヴィルヘルム4世に献呈しています。

ロンドンでの指揮活動

7月初旬にパリに戻ったベルリオーズは、当時イギリスで活躍していた有名なマネージャーのジュリアンと出会い、彼の申し出に応じる形でロンドンのドルーリー・レーン劇場の指揮者として活動するため、その年の末頃にロンドンへ向かいました。しかしジュリアンと交わした契約は途中で破棄されます。ロンドンに到着して4か月後にジュリアンは破産の危機に直面したためでした。

パリ帰国と相次ぐ不運の連続

イギリスでの生活が安定する矢先に、1848年2月にパリで勃発した2月革命によって、急遽パリへと舞い戻ります。理由として名誉職という名の地位であるパリ音楽院の図書館主事補の職を確保するためでした。

この時期、ベルリオーズの周りに相次いで不幸が襲います。パリへ戻った7月下旬に父ルイが世を去り、また別居中の妻ハリエットが脳卒中の発作で倒れ、パリの音楽界は革命の影響によって劇場は閉鎖され、街は謎の静けさを醸し出した状態でした。このため、作曲活動は一旦中断して評論と執筆活動に集中することを強いられました。

しかし1848年末頃に極秘に作曲を始めており、1849年に3群の合唱と大管弦楽のための『テ・デウム』(H.118,Op.22)を完成させます。だが演奏の機会が得られず、1855年4月にパリ万国博覧会でサン・トゥスタッシュ教会での初演まで待たなければならなりませんでした。

この時期の作品は合唱とピアノ伴奏のための『トリスティア』(H.119)と、2重合唱と管弦楽のための『民の声』(H.120)ぐらいしか作曲していません。また自身の『回想録』も執筆をし始め、そのうちの第1部を書き上げています。

1850年ロンドン・フィルハーモニック協会を真似する形で「パリ・フィルハーモニック協会」を結成します。パリではこのような協会は無く、これが初めてのことでした。ベルリオーズはこの組織の会長と指揮者に就任して演奏活動を活発に行います。しかし程なくして資金難に陥り、加えて聴衆からの受けがあまり良くなかったため、協会は結局1年後にそのまま解散してしまいました。

解散後、1851年から1855年にかけてロンドンに赴き、同地で定期的に指揮活動を行いました。

スミッソンの死とマリー・レシオとの結婚

1854年の3月3日、別居中の妻スミッソンがモンマルトルで世を去りました。4年前から容体は一層悪くなり、加えて身体は不随になっていました。別居中ではありましたが、彼女を見捨てることができなかったベルリオーズは、深い悲しみを味わい、『回想録』と友人フランツ・リストに宛てた手紙には悲痛な言葉がつづられています。

スミッソンを埋葬後、10月19日にマリー・レシオと正式に結婚しました。

成熟期

1854年3月末にドイツへ旅行に行き、4月1日にハノーファーを再訪します。ハノーファーでの演奏会をはじめとして、ドイツ各地で行った演奏会は立て続けに成功し、気を良くしたベルリオーズはパリに戻ったのち、以前作曲した『エジプトへの逃避』(H.128)を転用する形として、3部からなるオラトリオ『キリストの幼時』(H.130,Op.25)を5年がかりで完成させました。12月10日に初演されると聴衆から拍手を受け、大成功に終わります。

1855年の4月、長らく初演の機会を得られなかった『テ・デウム』がパリ万博において、ベルリオーズの指揮によって初演されました。

1856年、5月3日に没したアドルフ・アダンの後任として、フランス学士院会員に選ばれ、これにより収入が増え、生活も安定します。またこの頃にヴァイマルを訪問しており、同地で滞在していた際、フランツ・リストと同棲していたその伴侶ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と面会します。ヴィトゲンシュタインから『アエネーイス』を題材としたグランドオペラトロイアの人々』の作曲を勧められ、先のフランス学士院会員に選ばれたことを機に創作意欲を復活させ、同年5月5日に台本を自ら執筆し、僅か2か月足らずで完成させました。腸神経痛に悩まされつつも作曲を続け、一気呵成に1858年の4月12日に2年かけて完成させました。しかし全5幕というあまり長大なオペラ『トロイアの人々』は、初演の機会が得られないままでした。

1860年の夏にバーデン=バーデンで開催される音楽祭に赴き、この地で新しく建設される劇場のために支配人のエドゥアール・ベナツェから委嘱を受け、2幕のオペラ『ベアトリスとベネディクト』(H.138)を作曲しました。シェイクスピアの戯曲『空騒ぎ』に基づきますが、ベルリオーズ自身がフランス語の台本を執筆しています。一時中断もありましたが、1862年2月に完成させ、同年8月9日にバーデン=バーデンの新劇場で初演が行われています。

『ベアトリスとベネディクト』が初演される2か月前の1862年6月14日、後妻マリー・レシオが心臓麻痺のためこの世を去ります。彼の目の前でのことでした。遺体はモンマルトル墓地に埋葬される。ベルリオーズに残された家族は船員となった息子ルイだけとなりました。

1863年、苦労の末『トロイアの人々』がオペラ座で第2部のみ初演されましたが、生前に第1部と全曲が上演されることはありませんでした。全曲上演は1890年まで待たなければなりませんでした。そして長らく続けていた評論活動も止めてしまいます。

60歳を迎えた1864年、作曲の筆を折り長い作曲活動を終えたのでした。以降は一人でアパートに住み続けることとなります。また『回想録』を1865年1月1日付で終え、印刷にまわしました(ただし、没後出版される)。

晩年とその死

後妻マリーに1862年に先立たれ、さらに一人息子のルイ(船員になった)も1867年に失い孤独感を募らせた生活をパリで過ごしました。特に息子を失った時は半ば狂乱となった状態で立ち直れなかったと言われています。ですが指揮活動を伴う演奏旅行は、1866年にオーストリア、1867年にドイツ、1867年末から1868年にロシアでそれぞれ継続して行われました。

最晩年にロシアのエレナ大公妃から招待されて演奏旅行に赴き、ロシアのサンクトペテルブルクで演奏会を開いています。ベルリオーズにとってこれが最後の旅行となりました。だが元々不健康だったベルリオーズは、ロシアの厳しい寒さで身体に致命的な打撃を受け、帰国後の1868年3月には健康状態はより悪化していました。この間作曲はほとんどできない状態ででしたが、最後の作品はフランソワ・クープランの作品の編曲でした。

その後、南フランスで保養した後にパリで病床につきましたが、1869年3月8日の午前0時半に死去。65歳没。遺体はモンマルトル墓地において、2人の妻、ハリエット・スミスソン(1854年逝去)とマリー・レシオ(1862年逝去)とともに葬られました。

 

なかなか大変な人生でしたね。

つぎはいよいよ幻想交響曲についてです。

 

幻想交響曲

幻想交響曲(げんそうこうきょうきょく、Symphonie fantastique)作品14(H.48)は、フランスの作曲家エクトル・ベルリオーズ1830年に作曲した最初の交響曲。原題は『ある芸術家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲』(Épisode de la vie d'un artiste, symphonie fantastique en cinq parties )。「恋に深く絶望しアヘンを吸った、豊かな想像力を備えたある芸術家」の物語を音楽で表現したもので、ベルリオーズの代表作であるのみならず、初期ロマン派音楽を代表する楽曲です。現在でもオーケストラの演奏会で頻繁に取り上げられます。

続編として、音楽付きの独白劇という側面の強い“叙情的モノドラマ”『レリオ、あるいは生への復帰』作品14bが書かれており、1832年に『幻想交響曲』の再演と併せて初演されています。

ベルリオーズ自身の失恋体験を告白することを意図した標題音楽です。各楽章に標題が付けられるとともに、1845年版のスコアでは演奏の際には作曲家自身によって解説されたプログラム・ノートを必ず配るようにと要請していました(1855年版では、コンサートでの演奏であれば、各楽章の標題が示されていればプログラムは省略可能としています)。

幻想交響曲では、作曲者の恋愛対象(ベルリオーズが恋に落ち、後に結婚したアイルランドの女優ハリエット・スミスソン)を表す旋律が、楽曲のさまざまな場面において登場します。ベルリオーズはこの繰り返される旋律を「イデー・フィクス」(idée fixe、固定観念、固定楽想などと訳す場合もある)と呼びました。これはワーグナーが後に用いたライトモティーフと根本的に同じ発想といえます。「イデー・フィクス」は、曲中で変奏され変化していきます。例えば第1楽章では、主人公が彼女を想っている場面で現れ、牧歌的であるのに対して、終楽章では魔女たちの饗宴の場面で現われ、「醜悪で、野卑で、グロテスクな舞踏」になり、E♭管クラリネットで甲高く演奏されます。この主題は、1828年ローマ大賞のために作曲したカンタータ『エルミニー Herminie H29』に登場しています。

レナード・バーンスタインはこの曲を、「史上初のサイケデリック交響曲」だと述べました。これは、この交響曲に幻覚的、幻想的な性質があり、またベルリオーズがアヘンを吸った状態で作曲した(と本人が匂わせている)ことなどによります。

 

曲の構成

以下の引用は、1855年版の作曲家自身のプログラムに基づく翻訳です。

『病的な感受性と激しい想像力に富んだ若い音楽家が、恋の悩みによる絶望の発作からアヘンによる服毒自殺を図る。麻酔薬の量は、死に至らしめるには足りず、彼は重苦しい眠りの中で一連の奇怪な幻想を見、その中で感覚、感情、記憶が、彼の病んだ脳の中に観念となって、そして音楽的な映像となって現われる。愛する人その人が、一つの旋律となって、そしてあたかも固定観念のように現われ、そこかしこに見出され、聞えてくる。』

第1楽章「夢、情熱」 (Rêveries, Passions)

『彼はまず、あの魂の病、あの情熱の熱病、あの憂鬱、あの喜びをわけもなく感じ、そして、彼が愛する彼女を見る。そして彼女が突然彼に呼び起こす火山のような愛情、胸を締めつけるような熱狂、発作的な嫉妬、優しい愛の回帰、厳かな慰み。』

ラルゴの序奏部とソナタ形式の主部から構成されます。急速な主部に入ると間もなく、フルートとヴァイオリンによって「イデー・フィクス」が奏される。ハ短調ハ長調

第2楽章「舞踏会」 (Un bal)

『とある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する人に巡り会う。』

フルートとオーボエによる「イデー・フィクス」の旋律が随所に現れるワルツの楽章です。最後はテンポを速めて華やかに終わります。複数のハープが華やかな色彩を添えます。イ長調

第3楽章「野の風景」 (Scène aux champs)

『ある夏の夕べ、田園地帯で、彼は2人の羊飼いが「ランツ・デ・ヴァッシュ」(Ranz des vaches)を吹き交わしているのを聞く。牧歌の二重奏、その場の情景、風にやさしくそよぐ木々の軽やかなざわめき、少し前から彼に希望を抱かせてくれているいくつかの理由[主題]がすべて合わさり、彼の心に不慣れな平安をもたらし、彼の考えに明るくのどかな色合いを加える。しかし、彼女が再び現われ、彼の心は締めつけられ、辛い予感が彼を突き動かす。もしも、彼女に捨てられたら…… 1人の羊飼いがまた素朴な旋律を吹く。もう1人は、もはや答えない。日が沈む…… 遠くの雷鳴…… 孤独…… 静寂……』

羊飼いの吹く Ranz des vaches はアルプス地方の牧歌(牛追い歌。ロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲の第3部)。コーラングレと舞台裏のオーボエによって演奏されます。この楽章の主要旋律(20小節目からフルートと第1ヴァイオリンとで奏される)は、破棄するつもりだった自作『荘厳ミサ』のGratias agimus tibiや、未完の歌曲 Je vais donc quitter pour jamais, H6(ジャン=ピエール・クラリス・ド・フロリアンの詩による)でも使用されています。最後に、コーラングレによる牧歌が奏されると、4個のティンパニが遠くの雷鳴を奏し、静かに終わります。 ヘ長調

第4楽章「断頭台への行進」 (Marche au supplice)

『彼は夢の中で愛していた彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。行列は行進曲にあわせて前進し、その行進曲は時に暗く荒々しく、時に華やかに厳かになる。その中で鈍く重い足音に切れ目なく続くより騒々しい轟音。ついに、固定観念が再び一瞬現われるが、それはあたかも最後の愛の思いのように死の一撃によって遮られる。』

1845年版のプログラムでは、ここでアヘンを飲んで夢を見ることになっています。低弦、大太鼓、ホルンによって行進曲が開始されます。「イデー・フィクス」は、最後にほんのわずか現れるが、全オーケストラによってかき消されてしまいます。 ト短調

第5楽章「魔女の夜宴の夢」 (Songe d'une nuit du Sabbat)

『彼はサバト(魔女の饗宴)に自分を見出す。彼の周りには亡霊、魔法使い、あらゆる種類の化け物からなるぞっとするような一団が、彼の葬儀のために集まっている。奇怪な音、うめき声、ケタケタ笑う声、遠くの叫び声に他の叫びが応えるようだ。愛する旋律が再び現われる。しかしそれはかつての気品とつつしみを失っている。もはや醜悪で、野卑で、グロテスクな舞踏の旋律に過ぎない。彼女がサバトにやってきたのだ…… 彼女の到着にあがる歓喜のわめき声…… 彼女が悪魔の大饗宴に加わる…… 弔鐘、滑稽な怒りの日のパロディ。サバトのロンド。サバトのロンドと怒りの日がいっしょくたに。』

ワルプルギスの夜の夢」と訳される事もあります。弦楽器による不気味な音型で始まります。「イデー・フィクス」は、変奏されてクラリネットで奏されます。鐘が鳴り、グレゴリオ聖歌『怒りの日』(Dies Irae)がファゴットとオフィクレイドで奏されます。弦楽器による急速なロンドとなり、フーガを交えながら、全管弦楽の咆哮のうちに圧倒的なクライマックスを築いて曲が閉じられます。また曲の終結部近くでは弓の木部で弦を叩くコル・レーニョ奏法が用いられています(弓を傷める可能性があるので高価な弓を使う奏者はそれを嫌い、スペアの安い弓をこの演奏で使うこともあります)。ハ長調ハ短調ハ長調

 

さて、かずメーターですが、

第一楽章 94点

第二楽章 92点

第三楽章 90点

第四楽章 95点

第五楽章 97点

 

もう今から200年前にこんな曲作っちゃうんだからベルリオーズ、すごいですよ。曲を聴いていると目の前に作曲者が意図した風景が目に浮かんでくるんだから。

私は本当この曲好きでCDも30枚くらい聴きましたが、やはり最高なのが、私がアイコンに使っているシャルル・ミュンシュ指揮パリ管弦楽団の演奏です。変な曲中のスピードの上げ下げも無いし、特に管楽の響きがいいです。

www.youtube.com

このyoutubeが無くならないことを祈っています。

お勧めのCDです。