交響曲、大好き!

交響曲といっても知られていないものも多いと思います。 皆さんが聞きなれた/聞いたことがない交響曲を紹介していければと思います。

ワーグナー 交響曲ハ長調

今回はワーグナー交響曲ハ長調についてお話します。

ワーグナーといえば歌劇ですが、一曲だけ交響曲を書いています。それがこの曲です。

ここでワーグナーについてお話します。長々書きますが本当に性格がめんどくさい男なのでご留意願います。

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)は、歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者、思想家です。ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られています。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもあります。

1813年、ザクセン王国ライプツィヒに生まれます。父カール・フリードリヒ・ワーグナー(Carl Friedrich Wagner (1770–1813))は警察で書記を務める下級官吏でしたが、フランス語に堪能であったため、当時ザクセンに駐屯していたナポレオン率いるフランス軍との通訳としてたびたび駆り出されました。カールはリヒャルトの生後まもなく死去します。母ヨハンナ・ロジーネ・ワーグナー(Johanna Rosine Wagner)はカールと親交があった俳優ルートヴィヒ・ガイヤー(ユダヤ人・実父説もあり)と再婚しました。ワーグナ一家は音楽好きで、家庭内で演奏会などをよく開くなど幼時から音楽に親しみ、リヒャルトの兄弟の多くも音楽で身を立てていました。特に一家とも親交があった作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバーから強い影響を受けます。1817年にドレスデン宮廷歌劇場音楽監督に就任したウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人物で、生涯敬意を払い続けた数少ない人物でした。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志します。同時に劇作にも関心を持ち、のちに独自の芸術を生み出す原動力となります。10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められました。1830年10月、ベートーヴェン交響曲第9番をピアノ版に編曲しマインツのショット社に刊行を依頼するも、断られます。1831年の復活祭の折りにライプツィヒを訪れたベルンハルト・ショットに楽譜を手渡すとともに再度依頼するも、編曲版には不備も多く出版には至りませんでした。当初は絶対音楽の作曲家になろうと交響曲にも関心を示したが、すぐに放棄しました。

1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学。哲学や音楽を学びましたが数年後に中退します。また、聖トーマス教会のカントル(トーマスカントル)だったテオドール・ヴァインリヒに対位法作曲の指導を受けました。

1832年、今回ご紹介する交響曲ハ長調を完成させました。時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲しました。1833年ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となりました。その後指揮者に飽き足らず、歌劇作曲家を目指しましたが芽が出ず、貧困に苦しみました。

青年ドイツ派のハインリヒ・ラウベと知り合い、1834年、最初の論文『ドイツのオペラ』を匿名でラウベが編集する流行界新聞に発表しました。この論文では歌唱美を持つイタリア音楽や、イタリアオペラの欠点を補ったグルックなどのフランス音楽に比して、ドイツ音楽は学識的(gelehrt)であり、民衆の声や真実の生活からかけ離れていて、「ドイツなど世界のひとかけらにすぎない」と感じており、若いワーグナーは青年ドイツ派の影響を受けて、新しい音楽はイタリア的でもフランス的でもドイツ的でもないところから生まれると論じていました。

1834年にマクデブルクのベートマン劇団の指揮者となった際、女優のミンナ・プラーナーと出会い、恋仲となります。

1836年に『恋愛禁制』を作曲しましたがベートマン劇団が解散。ミンナがケーニヒスベルクの劇団と契約したため彼女についてケーニヒスベルクへ向かい、同地で結婚しました。しかし、二人の関係は不安定で、ワーグナーは独占欲が強く、他方のミンナは幾度も恋人と駆け落ちし、1837年5月にミンナは姿を消しました(ショック!!)。1837年にはドレスデン、さらに帝政ロシア領リガ(現在のラトビア)と、劇場指揮者をしながら転々としました。ドレスデンエドワード・ブルワー=リットンの小説『ローマ最後の護民官リエンツィ』を翻訳で読み、台本スケッチにしました。1839年3月、リガの劇場を解雇されました。7月、債権者から逃れたワーグナーはロンドンへ密航しました。この時に暴風に襲われ、『さまよえるオランダ人』の原型となりました。

1839年、ロンドンからドーバー海峡を渡り、船上で婦人からパリで成功したユダヤ人作曲家ジャコモ・マイアベーアへの紹介状を書いてもらいました。一時ブローニュ=シュル=メールで歌劇『最後の護民官リエンツィ』を完成させました。

銀行家の息子だったマイアベーアはパリで1824年に『エジプトの十字軍』を成功させ、『悪魔のロベール』(1831年)、サン・バルテルミの虐殺に基づくグランド・オペラ『ユグノー教徒』(1836年)の大ヒットなどで名声を博し、1842年にはベルリン宮廷歌劇場音楽監督に就任しました。マイアベーアの『預言者』(1849年)では最初の10回の収入だけで10万フラン、さらに版権で44000フランを獲得したうえに、レジオンドヌール勲章ザクセン騎士功労章、オーストリア・フランツ・ヨーゼフ騎士団騎士勲章、ヴュルテンベルク上級騎士修道会勲章、エルネスティン家一級指揮勲章、イエナ大学名誉博士号、ベルリン芸術アカデミー顧問などの名誉を獲得しました。

1839年9月、マイアベーアオペラ座支配人への推薦を引き受けてくれたため、ワーグナー夫妻は感激しました。しかし、10月には推薦が効き目なく、希望は幻滅へと変わり、マイアベーアへの邪推、そしてパリ楽壇、ユダヤ人を敵視するようになっていきました(面倒くせぇ奴だなぁ)。この頃、ワーグナーは生活費の工面や『リエンツィ』や『さまよえるオランダ人』の上演の庇護をマイアベーアから受けていました。ワーグナーマイアベーアグルックヘンデルモーツァルトと同じくドイツ人であり、ドイツの遺産、感情の素朴さ、音楽上の新奇さに対する恥じらい、曇りのない良心を保持しており、フランスとドイツのオペラを美しく統一した作曲家であると称賛しました。また、マイアベーアは多くのユダヤ人がキリスト教に改宗する時代において、改宗を拒否した唯一の例でした。一方でマイアベーアは聴衆のほとんどは反ユダヤ主義であるとハイネへの手紙で述べていました。

ワーグナーマイアベーアの紹介で、ユダヤ人出版商人シュレザンジューから編曲や写譜の仕事を周旋してもらい、また雑誌への寄稿を求められて、小説『ベートーヴェン巡礼』を連載しました。パリではドイツ人ゴットフリート・アンデルス、ザームエル・レールス、画家キーツと親交を結び、プルードンフォイエルバッハの思想を知りました。

1840年2月の手紙でワーグナーはマイアーベーアを民族の偏見をなくし、言語による境界を取り払う音楽として称賛しています。

1840年の「ドイツの音楽について」でワーグナーは、ドイツ国はいくつもの王国や選帝侯国、公国、自由帝国都市に分断されており、国民が存在しないために音楽家も地域的なものにとどまっていると嘆いたうえで、しかしドイツはモーツァルトのように、外国のものを普遍的なものにつくりかえる才能があると論じました。同年、反フランス的なドイツ愛国運動「ライン危機」がドイツで広がり愛国歌謡が作られましたが、ワーグナーはこれを嫌悪しました。ライン危機とは、1840年にフランスのティエ−ル内閣がライン川を国境とすべきだとドイツに要求したことに対する反フランス的なドイツの愛国運動のことであり、「ドイツのライン」「ラインの守り」「ドイツの歌」などの愛国歌謡が作られたが、ワーグナーは共感しませんでした。

偽名で発表したエッセイ「ドイツ人のパリ受難記」(1841)では「パリでドイツ人であることは総じてきわめて不快である」と書き、ドイツ人は社交界から排除されているのに対して、パリのユダヤ系ドイツ人はドイツ人の国民性を捨て去っており、銀行家はパリでは何でもできる、と書きました。ワーグナーの身近にいたマイアベーアは事実、偽客(サクラ)を動員したり、ジャーナリストを買収するなどしており、ハイネもそうして獲得したマイアベーアの名声に対して「金に糸目をつけずにでっちあげた」と批判していました。1842年頃には、ワーグナーシューマンへの手紙でマイアベーアを「計算ずくのペテン師」と呼ぶようになっていました。

この頃、ハイネから素材をとり『さまよえるオランダ人』(1842年)を作成しました。ワーグナーはハイネと親しく、ハイネがユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネを『ベルネ覚書』で批判すると、ワーグナーはハイネを擁護しました。

パリでワーグナーが認められることはなかった一方で『リエンツィ』は1841年6月に故郷であるザクセン王国ドレスデンで完成したばかりのゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)での上演が決定し、1842年4月にワーグナーはパリで認められなかった失意のうちに、『リエンツィ』の初演に立ち会うためにザクセン王国ドレスデンへ戻りました。

ドレスデンでの1842年10月20日の『リエンツィ』初演は大成功に終わり、これによってワーグナーはようやく注目されました。『リエンツィ』は流行のマイアベーア様式を踏襲しており、ビューローは「『リエンツィ』はマイアベーアの最高傑作」と呼びました。この成功によってザクセン王国の宮廷楽団ザクセン国立歌劇場管弦楽団(ドレスデン・シュターツカペレ)指揮者の職を打診され、翌年の1843年2月に任命されました。1月に『さまよえるオランダ人』が上演されたが、これは『リエンツィ』と違ってそれほどの評判を得られなかったようです。

1843年の「自伝スケッチ」でワーグナーは、イタリア人は「無節操」で、フランス人は「軽佻浮薄」であり、真面目で誠実なドイツ人と対比させたが、こうした評価にはパリでの不遇が背景にあったようです。

1844年にはイギリスで1826年に客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担当しました。ウェーバーを尊敬していたワーグナーは葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、さらに追悼演説も行って、多才を発揮しました。

当時のワーグナードレスデン宮廷歌劇場監督で社会主義者のアウグスト・レッケルの影響で、プルードンフォイエルバッハバクーニンなどアナーキズム社会主義に感化されており、国家を廃棄して自由協同社会(アソシエーション)を望んでいました。

1845年には『タンホイザー』を作曲し上演したが、当初は不評でした。しかし上演し続けるうちに評価は上昇していき、ドレスデンにかぎらず各地で上演されるようになりました。夏休暇にはヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』 、ゲオルク・ゴトフリート・ゲルヴィーヌスの『ドイツ人の詩的国民文学の歴史』 を読みました。

1846年、ワーグナーは毎年恒例であった復活祭の直前の日曜日におこなわれる特別演奏会の演目として、ベートーベンの『第九』の演奏を計画。当時『第九』は演奏されることも少なく、忘れられた曲となっていたため猛反対の声が上がりましたが、徹底したリハーサルや準備の甲斐あってこの演奏は大成功に終わりました。以後、『第九』は名曲としての評価を確立します。1848年に『ローエングリン』を作曲したが、この時は上演されませんでした。

ワーグナーは1846年、ザクセン王立楽団の労働条件の改善や団員の増強や合理的な編成を要求しましたが、総監督リュッティヒャウ男爵はすべて却下しました。さらに翌1847年にワーグナーは宮廷演劇顧問のカール・グツコーの無理解な専制を上訴したが、取り合ってもらえなかったため、辞任しました。

1847年夏、ワーグナーヤーコプ・グリムの『ドイツ神話学』に触発され、古代ゲルマン神話を研究しました。

1848年3月のドイツ三月革命ではフランスのような「国民」をドイツで実現することが目指され、レッケルがドレスデンで「祖国協会」を組織し、公職を追放されました。宮廷楽長ワーグナーはこの協会に加入していました。ワーグナーは5月に宮廷劇場に代わる「国民劇場」を大臣に提案したが、劇場監督が反対したため却下されました。6月には祖国協会で、共和主義の目標は貴族政治を消し去ることであり、階級の撤廃と、すべての成人と女性にも参政権を与えるべきであるとして、プロイセンオーストリア君主制は崩壊すると、演説で述べました。さらに、美しく自由な新ドイツ国を建設して、人類を解放すべきであると述べましたが、この演説は、共和主義者と王党主義者からも攻撃されました。また、この演説では金権とユダヤ人からの解放について演説したともいわれています。7月にはヘーゲルの歴史哲学に影響を受けて、「ヴィーベルンゲン、伝説に発した世界史」や「ジークフリートの死」の執筆をはじめました。

ワーグナーは、レッケルを通じてバクーニンと知り合い、1849年4月8日の「革命」論文では、革命は崇高な女神であり、人間は平等であるため、一人の人間が持つ支配権を粉砕すると主張しました。

1849年5月のドレスデン蜂起でワーグナーバリケードの前線で主導的な役割を果たしました。ワーグナードレスデンを脱出しましたが、指名手配を受けてスイスのチューリッヒに亡命しました。

1849年、ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加。当地に来ていたロシアの革命家のバクーニンと交流します。しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、フランツ・リストを頼りスイスへ逃れ、チューリッヒで1858年までの9年間の亡命生活をおくり、この亡命中にも数々の作品を生み出します。

亡命先のチューリッヒワーグナーは『芸術と革命』(1849)を著作し、古代ギリシャ悲劇を理想としたが、アテネも利己的な方向に共同体精神が分裂したため衰退し、ローマ人は残忍な世界征服者で実際的な現実にだけ快感を覚え、またキリスト教は生命ある芸術を生み出すことはできなかったとキリスト教芸術のすべてを否定しました。一方、ローマ滅亡後のゲルマン諸民族はローマ教会への抵抗に終始したし、またルネサンスは産業となって堕落したとしました。さらに近代芸術は、その本質は産業であり、金儲けを倫理的目標としていると批判した上で、未来の芸術はあらゆる国民性を超越した自由な人類の精神を包含する、と論じました。また、同年の『未来の芸術作品』では、共通の苦境を知っている民衆(Volk)と、真の苦境を感じずに利己主義的な「民衆の敵」とを対比させて、「人間を機械として使うために人間を殺している現代の産業」や国家を批判して、未来の芸術家は音楽家でなく民衆である、と論じました。

亡命先のスイスでゲルマン神話への考察を深め、1849年には『ヴィーベルンゲン 伝説から導き出された世界史』で伝説は歴史よりも真実に近いとして、ドイツ民族の開祖は神の子であり、ジークフリートは他の民族からはキリストと呼ばれ、ジークフリートの力を受け継いだニーベルンゲンはすべての民族を代表して世界支配を要求する義務がある、とする神話について論じました。1848年革命の失敗によって、コスモポリタン的な愛国主義は、1850年代には排外的なものへと変容しましたが、ワーグナーも同時期にドイツ的なものを追求するようになっていきました。

ローエングリン』はリストの手によってワイマールで1850年に上演され、初演ではやや不評だったものの次第に評価を上げ、やがてワーグナーの代表作の一つとされるようになります。もっとも、亡命中のワーグナー自身はドイツ各地で上演される『ローエングリン』を鑑賞することができず、「ドイツ人で『ローエングリン』を聴いたことがないのは自分だけだ」と嘆いたといいます。ワーグナーが『ローエングリン』を聴くのは実に11年後、1861年のウィーンにおいてでした。

この時期、独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書き、「楽劇」の理論を創り上げました。

ワーグナーマイアベーアを1846年にも尊敬していたが、1849年6月に指名手配を受けたワーグナーはパリでのマイアベーア流行に対して資本主義的音楽産業の兆候とみえ、憎悪するようになりました。ワーグナーは友人テーオドーア・ウーリクとマイアベーアの『預言者』を観劇し、「純粋で、高貴で、高慢で、真正で、神的で人間的なものが、すでにそのように直接暖かく、至福の存在において息づいている」と称賛していますがこれは嘲笑ともされ、この時期にワーグナーは「内心軽蔑していたパトロンたちにさえ、馬鹿にされていたのが実は我々だった」とリストに述べています。

1850年ワーグナーが変名で『音楽におけるユダヤ性』を「新音楽時報」に発表し、ユダヤ人は模倣しているだけで芸術を作り出せないし、芸術はユダヤ人によって嗜好品へと堕落したと主張しました。また、「ユダヤ人は現に支配しているし、金が権力である限り、いつまでも支配し続けるだろう」とも述べました。ワーグナー1850年以前はユダヤ人の完全解放を目指す運動に与していました。ワーグナーは『音楽におけるユダヤ性』で、マイアベーアを名指しでは攻撃せずに、ユダヤ系作曲家メンデルスゾーン・バルトルディを攻撃し、またユダヤ解放運動は抽象的な思想に動かされてのもので、それは自由主義が民衆の自由を唱えながら民衆と接することを嫌うようなものであり、ユダヤ化された現代芸術の「ユダヤ主義の重圧からの解放」が急務であると論じました。ワーグナーによれば、メンデルスゾーンは最も特殊な才能に恵まれ、繊細かつ多様な教養を有しているが、心を魂をわしづかみにするような作用をもたらさないとし、またバイロイト時代には才能を持っているが力を伸ばすにつれて愚かになっていく猿と評しました。ただし、ワーグナーメンデルスゾーンを『ヘブリデス』序曲(1830年)を称賛し、崇高であるとも評価し、1871年には自分が移調ができないことに対してメンデルスゾーンならば手を叩いて喜んだだろうとも述べており、さらにメンデルスゾーン本人よりも、メンデルスゾーン一派が台頭し、価値を創造せずにただ商品を流通させているだけの「音楽銀行家」と批判しました。また、1843年の「パウロドレスデン初演をワーグナーは激賞し、メンデルスゾーンも「さまよえるオランダ人」ベルリン初演を称賛しました。メンデルスゾーンは1847年に死去しており、『音楽におけるユダヤ性』はその三年後に発表されました。 『音楽におけるユダヤ性』を発表して以降、ワーグナーマイアベーアの陰謀で法外な非難を受けたと述べ、1851年にワーグナーはリストに向けて、以前からユダヤ経済を憎んでいたと述べ、1853年にはユダヤ人への罵詈雑言をリストの前で述べるようになっていました。

他方で、ワーグナーユダヤ人奏者を庇護したり、起用することも行っていました。例えば、『音楽におけるユダヤ性』には一点の疑義もなく、自殺するかワーグナーに師事するかしかないと述べたウクライナユダヤ人ピアノ奏者ヨーゼフ・ルービンシュタインワーグナーは庇護し、専属奏者とし、さらにバイロイト新聞への寄稿を求めました。同じくカール・タウジヒもユダヤ人でワーグナーの庇護下にあったし、ワーグナーローエングリンジークフリート役に好んで起用した歌手で後にプラハ新ドイツ劇場監督になるアンゲロ・ノイマンユダヤ人でした。

1851年には超大作『ニーベルングの指環』を書き始めます。また1859年には『トリスタンとイゾルデ』を完成させました。

1851年の『オペラとドラマ』でワーグナーは、古代ギリシャ人の芸術を再生できるのはドイツ人であると論じ、また死滅したラテン語にむすびついたイタリア語やフランス語とは違って、ドイツ語は「言語の根」とむすびついており、ドイツ語だけが完璧な劇作品を成就できる、と論じました。1851年12月にフランスでナポレオン3世のクーデターが起きると、ワーグナーは革命を期待したが、翌年末にフランス帝政が宣言されると、落胆して、ドイツへの帰国を考えるようになったそうです。

1860年1月25日、パリでワーグナー作品演奏会が実施され、ベルリオーズ、マイアーベア、オーベール、グノーが来場し、さらにワーグナーが開いた水曜会にはサン=サーンスとグノーが常連となり、またワーグナーボードレールを招待しました。

1861年にはワーグナーが実名で『音楽におけるユダヤ性の解説』を刊行しました。

この時期には数人の女性と交際していました。特にチューリヒで援助を受けていた豪商ヴェーゼンドンクの妻マティルデと恋に落ち、ミンナとは別居しました。この不倫の恋は『トリスタンとイゾルデ』のきっかけとなり、またマティルデの詩をもとに歌曲集『ヴェーゼンドンクの5つの詩』を作曲しました。しかしこの不倫は実らず、チューリヒにいられなくなったワーグナーは以後1年余りヴェネツィアルツェルン、パリと転々としました。1860年にはザクセン以外のドイツ諸邦への入国が許可されました。1862年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲にとりかかりました。この年、恩赦によってザクセン入国も可能になり、ワーグナーは法的には亡命者でなくなりました。そのため別居してドレスデンに住んでいた妻ミンナと再会できたが、この再会以後二人が会うことはありませんでした。またこのころ、ウィーン音楽院の教壇にも立っています。

ザクセンでの追放令が取り消し後の1864年ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世から突然招待を受けます。しかしそれを非難した宮廷勢力や、噂となっていたリストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマとの仲を王も快く思いませんでした。翌年スイスへ退避し、ルツェルン郊外トリープシェンの邸宅に住みました。

コジマは少女時代からワーグナーの才能に感銘を受けていましたが、ワーグナーの支持者であったビューローと結婚し、2人の子を儲けていた。ところがこのころワーグナーと深い仲となり、ついにワーグナーの娘イゾルデを産みます(2人とも離婚していない)。1866年ワーグナーの正妻ミンナが病死。1870年コジマはビューローと離婚してワーグナーと再婚しました。そしてビューローはワーグナーと決別し、当時ワーグナー派と敵対していたブラームス派に加わりました。

1865年、ワーグナーバイエルン国王ルートヴィヒ2世のために『パルジファル』を書き、「ゲルマン=キリスト教世界の神聖なる舞台作品」と呼びました。同1865年9月11日の日記では「私はもっともドイツ的な人間であり、ドイツ精神である」と書きました。ワーグナーは『パルジファル』にあたって、大ドイツ主義者の聖書学者グフレーラーの『原始キリスト教』に影響を受けました。

1867年にワーグナーは、フランス文明は退廃的な物質主義であり、優美を礼儀作法に変形させ、すべてを均一化させ死に至らしめるものであり、この物質的文明から逃れることができるのがドイツであり、古代末期にローマ帝国を滅ぼして新生ヨーロッパを作ったゲルマン民族と同じ国民である、と論じました。

1867年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が完成し、1868年6月21日にはビューローの指揮によってミュンヘン宮廷歌劇場で初演されました。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』では「たとえ神聖ローマ帝国は雲散霧消しても、最後にこの手に神聖なドイツの芸術が残る」(3幕5場)と述べられました。しかし、この作中でユダヤ人は出てきません。

1869年に北ドイツ連邦で宗教同権法(宗教の違いに関係ないドイツ市民同権法)が承認され、1871年ドイツ帝国全域で施行されると、反ユダヤ主義運動が高まりを見せたが、ワーグナーは同時代の反ユダヤ主義には同調しませんでした。他方でユダヤ人資本家、宮廷ユダヤ人によって操られているプロイセン政府を軽率な国家権力として批判しました。またワーグナーはヴィルヘルム・マルやオイゲン・デューリングの反ユダヤ主義は評価しなかったが、ユダヤ人の儀式殺人をとりあげたプラハ大学教授のアウグスト・ローリング神父の『タルムードのユダヤ人』(1871年)[50] を愛読しました。

ジークフリート牧歌』は、コジマと子供たちのために密かに作曲し、1870年のコジマの誕生日に演奏したものです。現在でも歌劇以外の作品としては特に有名です。

1870年の普仏戦争の開始に、ワーグナーは著書『ベートーヴェン』で、フランス近代芸術は独創性を完全に欠如させているが、芸術を売りさばくことで計り知れない利潤をあげているが、ベートーヴェンがフランス的な流行(モード)の支配から音楽を解放したように、ドイツ音楽の精神は人類を解放する、と論じました。

1872年、バイロイトへ移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、長く夢見ていた自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場の建築を始めます。1874年に『ニーベルングの指環』が完成。劇場は1876年に完成し、『指環』が華々しく上演されました。が、自身が演出したこの初演にはワーグナーはひどく失望し、再度の上演を強く望んだが、主に多額の負債のため、生前には果たせんでした。

1873年にはビスマルクの反カトリック政策である文化闘争を支持し、さらにカトリックだけではなく、横暴なフランス精神との闘争を主張しました。しかし、ビスマルクワーグナーの劇場計画や支援要請を拒否すると、ワーグナービスマルクプロイセンに失望し、今日のドイツの軍事的優位は一時的なものにすぎず、「アメリカ合衆国とロシアこそが未来である」と妻に述べ、1874年に「私はドイツ精神なるものに何の希望も持っていない」とアメリカの雑誌記者デクスター・スミスへの手紙で述べました。1877年にはバイロイトを売却して、アメリカ合衆国に移住する計画をフォイステルに述べました。

ワーグナー1880年の論文「宗教と芸術」で、音楽は世界に救いをもたらす宗教であると論じて、キリスト教からユダヤ教的な混雑物を慎重に取り除き、崇高な宗教であるインドのバラモン教や仏教などを参照して、純粋なキリスト教を復元しなくてはならないとし、失われた楽園を再発見するのは、菜食主義と動物愛護、節酒にあるとし、南米大陸への民族移動を提案しました。この論文では、「ドイツ」は一語も登場しません。ワーグナーに影響を与えたショーペンハウアーは、キリスト教の誤謬は自然に逆らって動物と人間を分離したことにあるが、これは動物を人間が利用するための被造物とみなしたユダヤ教的見解に依拠する、と論じました。ワーグナーの菜食主義は、ヒトラーの菜食主義にも影響を与えました。また、ワーグナー動物実験の禁止を主張しました。また、1880年には哲学者ニーチェの妹エリーザベトの夫ベルンハルト・フェルスターによって、ユダヤ人の公職追放や入国禁止を訴えるベルリン運動(Berliner Bewegung)が展開され、26万5千人の署名が集まりました。しかし、ワーグナーはベルリン運動への署名は拒否しました。

晩年の1881年2月の論文「汝自身を知れ」において、ワーグナーは現在の反ユダヤ運動は俗受けのする粗雑な調子にあると批判し、ドイツ人は古代ギリシアの格言「汝自身を知れ」を貫徹すれば、ユダヤ人問題は解決できると論じました。ワーグナーの目標はユダヤ人を経済から現実に排斥することでなく、現代文明におけるユダヤ性(Judenthum)全般を批判し、フランスの流行や文化産業と一体化したものとして批判しました。ワーグナーにとって、ユダヤ人は「人類の退廃の化身であるデーモン」であり「われわれの時代の不毛性」であり、ユダヤへの批判はキリスト教徒に課せられた自己反省を意味し、またユダヤ教は現世の生活にのみ関わる信仰であり、現世と時間を超越した宗教ではないとしました。

1881年9月の論文「英雄精神とキリスト教」では、人類の救済者は純血を保った人種から現れるし、ドイツ人は中世以来そうした種族であったが、ポーランドハンガリーからのユダヤ人の侵入によって衰退させられたとして、ドイツの宮廷ユダヤ人によってドイツ人の誇りが担保に入れられて、慢心や貪欲と交換されてしまったとワーグナーは論じました。ユダヤ人は祖国も母語も持たず、混血してもユダヤ人種の絶対的特異性が損なわれることがなく、「これまで世界史に現れた最も驚くべき種族保存の実例」であるに対して、純血人種のドイツ人は不利な立場にあるとされました。なお、ワーグナーユダヤ系の養父ルートヴィヒ・ガイアーが自分の実の父親であるかもしれないという疑惑を持っていました。

1881年ワーグナーバイエルン国王ルートヴィヒ2世への手紙でユダヤ人種は「人類ならびになべて高貴なるものに対する生来の敵」であり、ドイツ人がユダヤ人によって滅ぼされるのは確実であると述べています。しかし、同じ年に、ユダヤ人歌手アンゲロ・ノイマン反ユダヤ主義者に攻撃を受けると、ノイマンを擁護してもいます。

1882年、ウィーンのリング劇場で800人が犠牲となった火災事故に対してワーグナーは「人間が集団で滅びるとは、その人間たちが嘆くに値しないほどの悪人だったということだ。あんな劇場に人間の屑ばかり集めて一体何の意味があるというのか」と述べ、鉱山で労働者が犠牲になった時こそ胸を痛めると述べました。また、ワーグナーは「人類が滅びること自体はそれほど惜しむべきことではない。ただ、人類がユダヤ人によって滅ぶことだけはどうしても受け入れがたい恥辱である」と述べています。

1882年、舞台神聖祝典劇『パルジファル』を完成。最後の作品となった本作は、バイロイト祝祭劇場の特殊な音響への配慮が顕著で、作品の性格と合わせて、ワーグナーバイロイト以外での上演を禁じました。このころ祝祭劇場と彼の楽劇はヨーロッパの知識人の間で一番の関心の的になりました。

1882年夏、ワーグナーの崇拝者であったユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィはルートヴィヒ2世の命によって、『パルジファル』のバイロイト祝祭劇場初演を指揮しました。『パルジファル』でワーグナーはインドの仏教やラーマーヤナをモチーフにしたが、「キリスト教世界の外部」の中世スペインとして設定されました。宗教と芸術の一致を目標としていたワーグナーは、ユダヤ人のレーヴィをキリスト教に改宗せずに指揮してはならないと言ったが、レーヴィは拒否しました。レーヴィはワーグナーの論文「汝自身を知れ」に感銘し、ワーグナーユダヤとの戦いは崇高な動機からのものであり、低俗なユダヤ人憎悪とは無縁であると考えました。前年の1881年6月には匿名でユダヤ人に指揮させないでほしいという懇願とともに、そのユダヤ人はワーグナーの妻コジマと不義の関係にあるとする手紙がワーグナーのもとに届きました。ワーグナーが手紙をレヴィに見せると、レーヴィは指揮の辞退を申し出たが、ワーグナーは指揮をするよう言いました。ワーグナーの娘婿でイギリス人反ユダヤ主義チェンバレンは終生ワーグナーに忠実であったレーヴィを例外的ユダヤ人として称賛しました。

1883年2月13日、ヴェネツィアにて旅行中、客死。作品でも私生活でも女性による救済を求め続けたワーグナーらしく、最後に書いていた論文は『人間における女性的なるものについて』であり、その執筆中に以前から患っていた心臓発作が起きての死だったそうです。ワーグナーは死ぬ直前に「われわれはすべてをユダヤ人から借り出し、荷鞍を乗せて歩くロバのような存在である」とも述べていました。コジマはベッドに横たえられたワーグナーの遺体を抱きかかえて座り、一日中身動きひとつとしなかったといいます。遺体はバイロイトの自宅であるヴァーンフリート荘の裏庭に埋葬されました。

ワーグナーの死はヨーロッパ中に衝撃を与えた。ルートヴィヒ2世ワーグナーの死を知って「恐ろしいことだ」と打ち震えました。訃報を接した際に合唱の練習をしていたブラームスは、ワーグナーに弔意を表して練習を打ち切ったといいます。離反していたニーチェも悔みの手紙を送り、ワーグナーを痛烈に批判しブラームスを支持したエドゥアルト・ハンスリックもワーグナーの死を悼んだそうです。

 

さて、長くなりましたがこの曲についての説明です。

ライプツィヒの聖トーマス協会のカントルであったクリスティアン・テオドール・ヴァインリヒのもとでの最初の作曲修行を終えた19歳のワーグナー交響曲の作曲に着手し、すぐに完成させました。

その後、自筆譜は紛失したが、1877年にドレスデンで、亡命時に携えていたトランクの中からパート譜が発見され、アントン・ザイドルによりスコアが作成されました。その際、ワーグナーは若干改訂を行っています。

 

第1楽章 Sostenuto e maestoso-Allegro con brio

ソナタ形式。およそ4分に亘る54小節の長大な序奏を持つ。冒頭、5小節にわたって和音の打撃があります。借用和音を多用して、緊張感を高めています。フルートとクラリネットが半音階的に上下降する旋律を吹きます。この旋律に基づいて序奏は構成されているが、11小節に新しい旋律も現れます。イ短調の属和音に終止し、ホ音を弦楽器のトレモロで引き延ばしつつアレグロに入り、ホルンによる信号風のモティーフと、弦楽器の付点リズムモティーフによる第1主題を提示します。堂々と確保され、また違った下降音形モティーフと、流れるようなモティーフによる第2主題が登場します。展開部においては4つのモティーフが細かく展開されますが、第1主題の付点リズムモティーフの力が強い。再現部はいきなりトゥッティで主題を提示して開始されます。コーダ直前に現れる、短3度上行するモティーフは第2楽章の冒頭を暗示します。圧倒的なハ長調主和音打撃のうちに曲を閉じます。

 

第2楽章 Andante ma non troppo un poco maestoso

A-B-A-B-Aのロンド形式クラリネットによる音形で開始されます。弦楽器などによってややふわふわと音楽は流れてゆくが、間もなくチェロに非常に息の長い主題が現れます。この部分は非常に薄い響きで書かれており、管楽器は和音で伴奏するだけです。冒頭の音楽が回帰すると突如B部分に入り、分厚い和声と金管ティンパニによるファンファーレ風の音形を伴うやや行進曲風の堂々とした旋律が現れます。やがて不穏な響きとなり、弦楽器が忙しく動き回り、A部分が帰ってくる。再びB部分が現れ、冒頭の再現が行われ、ひっそりと曲を閉じます。

 

第3楽章 Allegro assai

スケルツォハ長調、4分の3拍子。冒頭、休符をはさんでの和音打撃があり、そのまま細かく動き回る主題となります。おおらかに上行する主題も現れ、激しく展開されます。同じくハ長調のトリオ(Un poco meno allegro)は木管群によるレントラー風の音楽。スケルツォが回帰し、トリオも回帰して、コーダに入ります。スケルツォ主題による圧倒的な響きで終わります。

 

第4楽章 Allegro molto vivace

ソナタ形式。冒頭、ハ音の打撃があり、弦楽器に細かく動き回る第1主題が提示されます。ニ短調など、様々な調の響きを持ちつつ盛り上がって確保されると、ポリフォニックな第2主題が木管群に登場します。展開部の前半は第2主題、後半は第1主題に基づき、幾度も盛り上がりながら再現部に突入します。コーダはピウ・アレグロと、やや速度を速め、第1主題による圧倒的な音楽となり、第1楽章冒頭の和音打撃の再現が行われ、ハ長調主和音が鳴り渡って堂々と曲を閉じます。

 

かずメーターでは

第一楽章 83点

第二楽章 73点

第三楽章 76点

第四楽章 77点

第一楽章だけの曲かなぁって感じです。ワーグナーにとっても初期の初期の曲なのでこんなレベルなんでしょうでしょうね。

経験として聞いてみてください。もう一度いいます。第一楽章はいいです。

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